オーヴェルニュの楽屋通信

日仏で活動するヴァイオリニスト小島燎のブログ。広島、京都、パリを経て、現在オーヴェルニュ地方クレルモン=フェラン在住。フランス国立オーヴェルニュ=ローヌ=アルプ管弦楽団コンサートマスター。「しまなみ音楽休暇村」「アンサンブルアカデミーinしまなみ」代表。

ピンチヒッター②

フランス滞在10年で起きたピンチヒッター騒動、もう少し続けます!

 

(3)ニュルンベルクからの帰り道で飛行機を乗り捨て事件

空港で電話がかかってきて行先変更・・・といえば、こんなこともありました。

オーヴェルニュ管に入団して最初のプログラムで、ドイツのエルランゲンという街でコンサートがありました。

クリスティアン・ツァハリアスとのブルックナーの弦楽五重奏(弦楽合奏版)などなど。

それが終わって、ニュルンベルクの空港から、みんなとパリ経由でクレルモン=フェランに帰る予定でした。

 

ニュルンベルク空港のラウンジでのんびりしていると、友人ピアニストからメッセージが。

明日ナントでピアノトリオの本番があるのだが、ヴァイオリニストのお母さんが危篤になってしまったので、代わりに弾いてくれないか、と。

曲はブラームスの1番とハイドンハ長調

ブラームスは何度も弾いた曲だし、ハイドンは初めてだけどまあ何とかできるだろう。そのヴァイオリニストはとても親しい子だったこともあり、お力になれるならば、とお引き受けしました。

 

しかし、場所はすでにチェックイン後のラウンジ。

衣装その他の入ったスーツケースはクレルモン=フェランまで預けたことになっています。

機内に乗り込んで早々CAさんに事情を話し、パリで降りること、荷物も引き取りたいことを説明します。

すると、自己都合で荷物を取り出すには手数料が何百ユーロもかかるというではありませんか!!

取り出すっていっても、どっちみち次の便に積み替えるところを、そのまま引取口に出してほしいというだけのことなのに。

それで一旦その場での交渉はあきらめ、パリに着いてからカウンターで再度相談することに。

 

オケの事務局長がついてきてくれて、いっしょに事情を説明してくれます。

運が良かったのが、この時たまたま、クレルモン=フェランへの便の出発時刻が20分かそこら遅れていたのです。

それでどうやら、カウンターのスタッフが良い具合に誤解してくれて、「クレルモン=フェランへ予定通りに着けないから、パリで降りたいのね」というふうに解釈してくれたのですね。要はエールフランス側の不手際による途中降機ということになり、手数料は必要なくなったわけです。

 

よーわからん。

ともあれ荷物ともども降りられることになり、受け取り場所で待ちます。

しかし、いったんクレルモン=フェランまでチェックインしたスーツケースは待てど暮らせどベルトの上に現れない。

他の乗客はどんどん荷物を引き取る中、ついに私のスーツケースは出てこないまま、ベルトは停止。

ロストバゲージは過去2〜3回経験済みなので、この絶望感、あーあまたか、という感じです)

急に行先を変更したので何かトラブってるんだろうなと思い、しばらく待ってみますが、やはり出てこない。

係の人に相談し、荷物扱いのスタッフのほうに連絡してもらい、何度も何度もやりとりがあった後、ついに私の荷物は行先不明品に分類され、保管倉庫に向かっていることが判明!

それでまたさらに待って、ようやくのことで荷物を引き取れたのでした。

 

そんなこんなで時間はもう夜。

ピアニストが家に泊めてくれるというので、タクシーで向かいます。

本番は明日。

何はともあれ、ハイドンのトリオを譜読みして(また金属ミュートの出番)就寝。

翌日はTGVでナントに移動。

結局ブラームスをさらう時間はないまま、合わせをします。

いくら何度も弾いていても、難しいものは難しく、こう突然じゃ音程もハチャメチャ!

それで合わせは早めに切り上げてもらい、残った時間で個人練習。

一緒に弾くのも初めての2人でしたが、助け合いの精神で、本番はなんとか乗り切ったのでした!

 

(4)当日ぶっつけ本番で弾き振り事件

オーヴェルニュ管にゲストで呼ばれるようになってすぐの頃。

ドヴォルザークの弦楽セレナーデと、シューベルトの「死と乙女」(マーラー編曲弦楽合奏版)というプログラムで、指揮者なしで、とあるヴァイオリニストがゲストコンマスとして弾き振りをする公演で、トップサイドで乗っていました。

本番当日、滞在先のアパルトマンをあと20分ほどで出ようというタイミングで、一本の電話が。

コンマスがコロナ陽性。

 

代わりにやってくれるか、とのことで、すぐOKしました。

というかOKしなきゃ、コンサート自体が中止になりますし、そもそもトップサイドはその可能性も込みで引き受ける仕事です。

リハーサルはすでに2日間行っていて、あとはゲネプロで1回通す時間があるかないか。

まだ、このオケの人たちのこともそんなによく知らない時代のうえ、バカンス前の公演だったので、セカンドヴァイオリンもチェロも客演首席で、本来のメンバーではない状態。

ドヴォルザークは弾き振りもしたことがあったし、それ以外でも何度も弾いているので大丈夫。

死と乙女はカルテットで1回、弦楽合奏で1回弾いただけで、その時もあまり練習が多くなかったので、私も正直あまり余裕なし。

という感じでしたが、オケの皆さんは知り尽くしていらっしゃるし、私は要所要所でアンサンブルをまとめていけば大丈夫という状態で、ゲネプロ・本番とも無事終了。

つかれました。

 

 

オーヴェルニュ管に入団する前、ゲストで伺っていた時代の重要な出来事としては、このアクシデントの他にもう一つあって、それは日本ツアーでのこと。

日本に着いて、初日の本番の前日にリハーサル日が設けてあったのですが、コンマスのギヨームがスイスかどこかでのコンサートのため、本番当日の朝にしか日本に着けない、ということに(そんなスケジュールあり!?笑)。

それでやむをえず、前日リハはトップサイドの私が代わることに。

そのプログラムの中に、モーツァルトの未完の弦楽三重奏曲を、音楽監督のトーマス・ツェートマイヤーが弦楽合奏にアレンジしたものがありました。

 

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最初の2ページはヴァイオリン、ヴィオラ、チェロの3人のソロで、後から全員が入ってきます。

本来のコンマスのギヨームがいないのだし、他の人には関係ないのだから、リハではこの箇所はスキップするのが普通です。

しかし当日急に弾けと言われては困るので、一応こっそり練習はしてあって、しかも念のため、トーマスに「明日ソロの部分やりますか?」と聞いてみると、「ギヨームの飛行機が万一遅れたりしたら、あなたが本番も代わるのだから、準備しておいてください」とのこと。

本当にちゃんと弾けるのか確認したかったのか、実際リハではトーマスもみんなも見ている前で、最初から最後まで全部弾かされました!

結局ギヨームは無事に日本に到着し、ちゃんと本番は弾いてくれたのですが。

 

その後入団できたのは、もちろんオーディションに受かったからなのですが、こういう一つ一つの場面でも力を試されていたり、信頼できる人間かどうかジャッジされたり、ということは間違いなくあると思います。

もちろんそれはこれからも同じですし、いつそういう場面が降りかかってくるかわかりません。

こんなドラマティックな場面でなくても、日常の何気ない振る舞いや演奏が、ひとつひとつの信頼をつなげることにも、壊すことにもなりかねない。

とても難しいことですが、共演者や主催者をがっかりさせたりしないよう、どんな時でも万全に準備し、頼ってもらえる存在でい続けたいと思っています。

ピンチヒッター①

10年もフランスで活動していれば、突然、演奏会のピンチヒッターに召喚される、ということも何度もありました。

日本でももちろん、やむをえない病欠で代役を立てることはあるし、コロナ禍で外国人演奏家が入国できなかった時期に、日本人ソリストが代役で活躍したりもしていましたが、よほどの事情でない限り、一度引き受けた仕事・コンサートをキャンセルするというのは、日本では相当良く思われず、信頼を失いかねないことですよね。

私も実際、あとからキャリアアップにつながるようなお誘いをいただいたけれど、すでにお引き受けしているお仕事を優先したことは何回もあります。

 

これに対して、フランスでの感覚はもう少し緩やかなように感じます。他にもっと大きなコンサートとか、長期の仕事などが入ったりして、元々の予定をキャンセル(annuler)するということは、もちろん決して良くはないのですが、ケースバイケースであり得ることだと思います。

メールや口約束の時点で実質的な契約となる日本と違って、フランスではあくまでも契約書のサインをもって法的拘束力が発生する、という点でも若干感覚が違うのかもしれません(もちろん、どんな小さな仕事でも契約書にサインします。そのサインは仕事の当日、悪くすると事後ということも)。

正当な事情でもって誠実に説明した上で1回や2回、オケの仕事をキャンセルしても、二度と声がかからない、ということもないと思います(もちろんオケによるでしょうが)。

私もなるべくしないようにしていますが、事情や関係性によっては理解してもらえることだと考えています。もちろんその際は代役探しに協力したりしますよ。

あとは、単にスケジュール管理が悪くてダブルブッキングをやらかしたり(私が初めてオーヴェルニュ管に呼ばれたのはこれが原因)、主催側の手違いで演奏者の発注や楽譜の送付にミスがあったり・・・ 日本人はあまりしでかさなそうなことも、まあ時折起きますね😅

 

代役とは関係ないですが、あるピアニストが、ショーソンの超難曲コンセールを詩曲と勘違いしていて、来てみて真っ青、なんてこともありました・・・

それにそもそも、寄せ集めのオーケストラなどの場合、日本みたいに何ヶ月も前から奏者を確保する、ということもあまりないですね。ひどい時は半月前に「この週まるまる空いてますか」なんてメールが来たりもします。もちろん、コアなメンバーは前もって確保していると思いますが、それにしてもねえ・・・。

 

話が逸れました。

そういうふうにキャンセルの頻度がそれなりにあると、当然、代役という役目が発生します。

楽家の悪夢あるあるで、当日にいきなりコンチェルトのソリストを頼まれるなんてほどのことは、さすがに起きていません(頼まれてもできません)けれど、そこそこに「え?今から?」というハプニングは私の身にも何度か起きていますので、いくつかご紹介しようと思います!

 

(1)新曲の初演(ヴァイオリンとピアノのデュオ)の代役を4日前に頼まれる

とある夏の音楽祭で予定されていた、現代作曲家が書き下ろした、ヴァイオリンとピアノのためのソナチネ

初演するはずだったのは、フランスでご活躍の某若手ソリスト

ところがなんと、事務局から楽譜の送付が漏れており、演奏者本人からも催促や確認をしておらず、現地に着いてから楽譜を初めて開き、こんなの今からできるか!となったのだそう(いやいや、事前に確認しなさいよ・・・)。

その音楽祭はスケジュールのびっちり加減で有名で、もちろん今さら個人練習する時間はありません。

そこでその週、暇していた私に電話がかかってきました。

コンクールや講習会で忙しくしていたのがやっと落ち着いた週で、最初は全然気が乗らずに断ったのですが、相手が本当に困っている様子でまた電話してきて、私もとてもお世話になっている方々だったので、しばし楽譜を眺めて検討し、できそうかなと判断してお受けすることに。

結局はお客さんも主催者も本当に喜んでくれ、コンサートはものすごく盛り上がったので、引き受けてよかったなと思いましたし、喜んだ主催者が次の年のオファーをくれました。

そしてこの音楽祭には2年後もまた、コロナ禍でフランスに来られない人の代わりを頼まれます。この時は2週間近く猶予があったので、大丈夫でしたが。

 

(2)イタリアにいるのに急にポーランドへ来いと言われる

忘れもしない2021年8月。堀米ゆず子先生を追いかけて、イタリア・ブレシアの講習会に行ったことはすでに書きました

それが終わって、私は日本に直接帰る予定でした(2週間の自宅待機もあります)。

日本に帰るため、ブレシアからミラノまで電車に乗り、ミラノのマルペンサ空港に向かうバスに乗っている時、友人のヴィオラ奏者から一通のメッセージが。

「明日からポーランド室内楽フェスティバル来られない?一人来られなくなっちゃって、曲はチャイコフスキーのピアノトリオと、カトワールの弦楽五重奏!」

 

そのフェスティバルは「Krzyzowa Music」。ポーランドヴロツワフの近くにあるクシショヴァという場所で、ヨーロッパやアメリカの一流の若手たちが一同に会し、ベテランのプレーヤーとともに、2週間の住み込み形式でコンサートやリハーサルを繰り広げるもの。参加するためには応募による選考があります。

音楽監督は世界的なソリストのヴィヴィアン・ハーグナー。

 

とはいうものの、無知な私はその時点で音楽祭のことを何も知らず🤣

これから日本の実家で2週間引きこもりだ!と思っていたところへ急にポーランドのことが舞い込んできて、頭は大混乱、マルペンサ空港の出発ロビーで立ち尽くしたまま、まずはどういう音楽祭なのか、誰と弾かされるのか、とにかくインターネットで情報収集。

日本に帰るのが遅くなれば、もちろん2週間待機もその分後ろ倒しになり、日本での予定も全部ずれてしまうものの、致命的な予定は入っていなかったので、これはやろうと決意。

チャイコフスキーのトリオは3年前に弾いていたし、もう1曲のことはよくわからないけどまあ何とかなるだろう!と。

 

ミラノからパリ経由で日本に向かう予定だったのを、パリ〜日本の便をまず(なかなかつながらない)電話で1週間延期。その間に友人ヴィオラ奏者は私のパリ〜ヴロツワフ間のフライトをゲット。私はさらにパリの空港ホテルを確保、翌日朝にヴロツワフに向かう体制を整えます。

真夏のイタリア仕様の服しかなかったので、空港のラルフローレンでパーカー購入。

パリに着いて空港ホテルに入ったのが23時くらいでしたが、金属ミュートをつけ、とにかくチャイコフスキーを一通りさらいます(簡単に言うけど通すだけで50分かかります)。思ったより指に残っていて一安心し、就寝。

翌日は、ヴロツワフへの飛行機の中で、カトワール(作曲家の名前も知らず)の弦楽五重奏とやらのスコアを見ながら音源を聴きます。これが非常にややこしい曲!セカンドヴァイオリンだったので、とりあえず音を弾けるかどうかは後回しにして、曲のつくりと流れだけ確認して、最低限落ちないようにしておくことに。

 

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今久しぶりに聴いていますが、やっぱり分かりにくい!!

 

そんなこんなでクシショヴァに到着。

コロナにかかっていないか、まずは検査。

 

そして話をよくきいてみると、弾かなければならないのは全部で4曲あると!

友人ヴィオラ奏者、私が引き受けるように、残り2曲のことはぼかしてたんですね😤

バツェヴィチの4つのヴァイオリンのための四重奏と、ジョン・アダムスの「シェイカー・ループス」でした。

どっちも知らない曲で、1から勉強です。

バツェヴィチはそんなに難しくないので何とかなりそうで、アダムスのほうは個人的なことではなく、合わせで困難を極めそうな感じでした。

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そんなこんなで3日か4日ほどリハーサルをして、本番が3回あったかな。

共演したのは、フォーレ四重奏団のチェリストコンスタンティン・ハイドリッヒ氏や、ヴィエニャフスキ国際コンクールの覇者のアガタ・シムチェフスカさんら。

他にも、国際コンクール覇者級の若手や、ベルリン・フィルのアカデミー生などがひしめいていて、アダムスでは、友滝真由さん(ベルリン・ドイツ交響楽団)と一緒に弾くことができました!(リハーサル、大変だったねえ・・・)

コントラバスのアレクサンダー・エデルマンは、イスラエル・フィルやバンベルク響、マーラー・チェンバーの客演首席などを経験している猛者でしたが、すぐ行方不明になりかねないこの複雑な曲で、すごく頼れるプレーをしていて印象に残っています。

 

とくに、3曲で共演したコンスタンティンは「きみはライフセーバーだ!」と散々言ってくれて、すごく親切にしてくれました。彼のチェロの音はほんとうに聴いたことがないほど艶やかで輝かしく、力強く、特にチャイコフスキーでの彼との共演はすさまじい体験でした。


カトワールは、もともと準備をしてきた人たちにとっても大変な曲でしたが、本番はすごくいい演奏になりました。これは名曲です!

 

フランス内のイベントではフランスの音楽家が中心で、あまり他の国と混じり合うことがないので、こういう場所は新しい視界がひらけて、楽しかったです。

英語力の著しい低下が自分でも嫌になりましたが・・・

それと2回目の「音楽休暇村」が迫り来る時期で、その準備ややりとりも同時でしなければならなかったので、結構大変でした(嗚呼、AFF騒動・・・)。

 

この音楽祭は結局、翌年もまた呼んでくれて、また素晴らしい若手たちと共演させてもらいました。ハンス・アイスラーの「雨を描く14の方法」はすごくやりがいがあったし、ヴィエニャフスキ・コンクールの覇者ヴェリコ・チュムブリーゼたちとのフランクのピアノ五重奏も思い出深いです。読響首席に就任したファゴットの古谷挙一くんともご一緒させていただきました。

 

バーベキュー大会などもあって、交流が深められるようになっていました!

私はピンチヒッターで横道から参加しましたが、ヨーロッパでのネットワーク作りをしたい方には、とても良い場所だと思います!

 

代役騒動、まだまだあるので、次回に続けます!

フランス滞在記⑪ 〜クレルモン=フェランへの引越し〜

2023年秋から住んでいるクレルモン=フェラン。

いまの物件に出会ったのも、また勝手に降ってきた話でした。

 

オーヴェルニュのオーディションに受かったことが世の中に知れ渡った数日後に、かつてこのオケで数年間弾いていたヴァイオリンの知人(現在はフリーランスであちこち飛び回っている)が、在籍当時に買ったアパルトマンがあって、今次の借り手を探しているところだから、借りないか?と、「向こうから」連絡をくれたのです。

立地は旧市街地ど真ん中、大聖堂のすぐそば。

最上階(フランス式3階)で、ワンフロア1部屋なので隣人なし、いつでも好きなだけ練習し放題、だったそうです。

とにかく、あちこち探したり、不動産会社とやり取りしたりするのが億劫でたまらない私は、その話をもらった時点で8割方、そこを借りることに決心していましたが(笑)

ちょうどその直後に、ゲストコンマス(入団前)としてまたクレルモン=フェランに来る予定があったので、その際に内見できるよう連絡を取り、それであっさり決めました!

他の物件と比較検討することもなく、ストレート入居。

もちろん、今回はオケの雇用契約書1枚さえあれば、何の問題もありません。

 

しかし、パリからの引っ越しは大変でした!!

またもやイェルンが手伝ってくれたのですが、今回はミニトラックをレンタル。

積み込みは諸岡さんも手伝ってくれて、いざ4時間ほどの道のりを走ります(もちろん運転はイェルン🙏)。

高速道路を降りるまでは順調で、天気もよく。

問題はクレルモン=フェラン市街地に入り、あと5分ほどで着くというとき。

 

狭い路地が入り組んだ旧市街は、一方通行や進入禁止が多く、どこからアプローチすればいいのかわからず、道を間違えてUターンしようにも、車が大きくて至難の業。

そこへ運悪く、大雨が降り出します(この街は丘の上にあって周りに囲いがないので、突如、天気が大荒れになることが珍しくない)。

私は車を降りて、ずぶぬれになりながらバックをアシスト。雨音がすごくてその声もなかなか届かず、もうちょっとで店のガラスに突っ込みそうになりながら、どうにか方向転換に成功。

 

大きく迂回し、やっとの思いで到着したと思ったら、通れると思っていた門の高さが低く、車をパーキングに入れられそうもない、ということに。

となると車が一台やっと通れるくらいの路地に駐車し、荷物を降ろすしかありません。

どうしよう、と迷っているあいだに後ろからすぐクラクションが鳴らされます。

そして大雨はやまない。このまま荷下ろししたら、テレビ(55インチの大型💦)などがずぶ濡れになります。

半ばパニックの我々はともかくこの場をいったん去ろうと、さらに狭い路地に迷い込みます。

借り物のトラックをぶつけそうになる重圧。そして返却の時間まで迫ってくる。

 

とにかくこの狭く曲がりくねった旧市街に、小型とはいえ、乗り慣れてもいないトラックで乗り込んだのが失敗で、我々はほぼ半泣きでしたが、多少小降りになった瞬間に、近くに住むオケの仲間2人に応援を要請し、腹をくくって(雨の中)道で荷下ろしを決行。

後ろの車の行列に平謝りしながら。

4人がかりだったので、道をふさいでいたのは5分足らずだったかと。

そこからイェルンはトラックを返却しに行き、残った3人で、3階(日本でいう4階)まで、螺旋階段を使って荷物や家具を上げます!

そう、エレベーターがないのが唯一の欠点です・・・。

 

これは相当にきつかったですが、2人の協力のおかげでどうにかこうにか運び込み完了。

私はずぶぬれで凍えそうなので、とにかくシャワーで身体をあたためます。

イェルンはトラックに燃料を補充して返却し、満身創痍で帰ってきました。

着いたら私のおごりで盛大に慰労会をするつもりだったのですが、あまりにも大変な思いをしたので、しばらくは動くこともできず!

 

引越し業者の見積もりでは2000€以上かかったところ、自前でやったことで、トラックのレンタル、燃料と高速、イェルンの帰りの電車などを合わせても500€くらいで済みました。

ですが、、、次回は多分、業者に頼みます😅

 

広いリビングにキッチン、大きな寝室のほかにもう一部屋ゲストルームがあり、そこにはいま、日本から輸入した置き畳を敷いて、寝っ転がれるスペースにしています。

立地、広さ、コンディション、すべて申し分ないし、練習にいっさい支障がないのが、なによりもありがたいです。下の階の人に一度聞いてみたことがあるのですが、まったくヴァイオリンは聴こえないそうです。深夜の足音のほうが気になると😅

 

ここももう住んで2年になりますが、そろそろどこか購入するというのもありかなあと思いつつ・・・。

フランスでは、投資として若いうちから買ってしまって、住まなくなったら人に貸したり、売ったりというケースが多いですね。

「家賃を払い続けるなんて、お金をみすみす捨てているようなもんだよ!」なんて言われたこともありますが、日本人的な感覚ではなかなか踏み切れませんね。

フランスにあと5年いるのか、40年いるのかもわからないですし。

何より、またこの螺旋階段からエアコンやテレビを降ろすことなど、考えたくもない🤣

 

まあ、これまでもそうだったように、しかるべき時にしかるべき展開があるかなあ、と思っています!

 

さて、11記事にわたってしまいましたが、これでおそらく私のフランス生活10年間の流れは大まかに網羅できたと思います。

もちろん、まだ色々な出来事やハプニングはあるので、別のトピックとしてまた書きますね!

フランス滞在記⑩ 〜はじめて借りたアパルトマン〜

トリオの話で2023年まで来まして、その後本格的に始めた就活の話や、パスポート・タランを取得してアンテルミタンになった話もすでにしているので、フランス滞在記はほぼほぼ完結しているのですが、2019年以降の生活について少し補足します。

 

2018年の夏から1年間、マレ地区のシテ・デ・ザールに住んでいたことはすでに書きました。

あまり環境がいいとはいえず、どこかもうちょっと綺麗なところに住みたいと思っていたのと、学生のうちにアパルトマンを借りておかないと、フリーランスになってからはなかなか難しいという話も聞いていました。

学生であれば、保証人を立てることで契約できるのですが、そうでないと、やはり経済状況や、安定した職についているかといったところが重視され、あくまでも「失業保障」制度を利用しているアンテルミタンというのは、その意味ではかなり不利な立場にあります。

ということもあり、学生の身分のうちにどこかアパルトマンを契約しておきたいという思惑もあり、新しい住処探しが始まりました。

 

パリで良い条件の物件を見つけ、しかも楽器を弾いても大丈夫(日本みたいに明確なルールはないので、隣人と防音次第)で、しかも学生とすんなり契約してくれるというのは、なかなかに至難の業です。音楽学生界隈では、SNS掲示板などで情報交換が活発にされていて、誰かが住んでいたところに入れ替わりで紹介してもらう、というケースもかなり多いです。私も人の相談に乗ったり、情報を転送することはよくあります。

正攻法でインターネットで探して、気に入った物件があったら、不動産業者に書類を出して審査を受けるというパターンもありますが、希望者が多いと、学生やアンテルミタンを優先的に選んでくれることは期待できないかもしれません。

 

私は大変ラッキーなことに、自分から積極的に探すことなく、口コミが降ってきたことによって見つけることができました。

自分からやったことは一つだけ。とにかく周りの人に、「家探ししていることを言いふらす」。これが大事です。何か情報があったら教えてもらえたり、自分が退去するにあたって次の借り手を探している人が連絡してくれたり、意外に効果があります!

 

そんな中で、トリオのパートナー、ジェレミーが、パリ音楽院の掲示板に貼ってある小さなビラを見つけて教えてくれました。

ル・プレ=サン=ジェルヴェという、音楽院からも徒歩圏内の地域で、比較的閑静な地域です。住所的にはパリ郊外にあたります。

不動産業者のチラシではなく、大家さんが自分で貼り出したビラでした。

音楽院に貼るくらいなので、楽器演奏にも寛容なのだろうと思いつつ、連絡をしてみたところ、まだ借り手が決まっていなかったらしく、内見の約束を取ることができました。

 

行ってみると、中庭に面した静かそうな建物で、リノベーションしたばかりの小綺麗な部屋でした。

1階(日本でいう2回)、25平米、広いバスルーム、大きな冷蔵庫にキッチン、食洗機や洗濯乾燥機完備。ソファベッドもあって客人も泊められる。

ワンルームでありつつ、真ん中にスライド式の扉があり、2つの部分に区切ることもできる仕様。

家賃780€。

これがパリの中心部だったら、1000€くらい行ってもおかしくない条件です。

 

楽家であることは大家さんも始めからわかっているので、楽器も持って行って、上下の階にどれくらい漏れるか、確認してくれました。

音漏れは気にならない範囲で、大丈夫じゃない!?ということでした。

とにかく苦労少なく早く決めたい私は、その場で「ここに決めます」と宣言。

ほかにも候補者はいたようですが、不動産会社を通したくない、綺麗に使ってちゃんと家賃を納める人に貸したい、音楽学生歓迎、そういう大家さんの思惑とも一致し、私が借りられることになりました。

 

保証人を立て、その人の経済証明などの書類のやり取りが若干あり、1週間かそこらで契約書にサインしました。

こんなにあっさり家が決まるなんて、かなりラッキーだと思います。

友達の家に行くことも時々ありますが、なかなか狭いところ(15平米前後)で頑張って生活していたり、決して状態がよいとはいえない部屋だったり・・・。

グランドピアノを搬入して、さあ練習!と思った30分後には苦情が来たなんて話も聞きました。

長く住むにあたって、QOLを満たし、思うように練習もできて、しかも家賃が手頃な物件に出会うのは、本来至難だと思います。

 

引っ越しは前回同様、イェルンが車を出してくれて、1回で運び込み完了🙏

 

このアパルトマンには、クレルモン=フェランに引っ越すまで4年間住みましたが、快適に暮らせましたし、楽器の音についても文句は言われませんでした。上下の人はもちろん多少、我慢してくれていたと思います。ありがとう・・・。

21時くらいまでは普通に弾いていて、それ以降も練習したい時は金属ミュートつけて弾いていました。

東西両側に大きな窓があり、天井に大きなファンが2つもついていたので、灼熱の夏も風通しがよく、寝るときも快適でした。

唯一のデメリットは、メトロの駅から離れていて、周囲のどの駅に向かうにも徒歩10分以上かかったことくらいでしょうか(家賃が安い理由でもあります)。

 

 

そして今クレルモン=フェランでは、その倍以上広いところに、100€以上安い家賃で住んでいます!

しかも旧市街のど真ん中。オーケストラの練習場や劇場まで徒歩5分。

8年パリで頑張りましたが、今のところは地方暮らしのアドバンテージを満喫中です。

この物件への出会いと引越しについては、次の記事で。

フランス滞在記⑨ 〜コロナ/トリオ・コンソナンスの続き〜

トリオに話を戻していきます。

とはいえ、先にコロナ時代の話をせねばなりません。

 

2020年春から夏にかけ、ロックダウンで学校も閉まり、予定されていたコンサートもすっかり飛んでいきました。

いつ終わるともわからないパンデミック、パリの狭いアパートで引き篭もり生活をするのはちょっと考えにくく、しかもフランスから外に出ることも出来なくなるかも??という気もしており、私は即日即決で日本へ帰ることにしました。

 

よい決断だったと思うし、人生がかなり変わった転換点にもなりました。

その時点ではまだ、2週間の自宅待機の義務がないタイミングでしたが、ヨーロッパでコロナが急激に感染拡大!というニュースが駆け巡っており、ヨーロッパからの帰国者はほぼ犯罪者あつかい!?と、こちらからすると感じてしまうような情勢でした。

フランスから帰ってきましたとはとても周りに言えない状況で、私は自主的に2週間、広島の実家で一人静かに自粛生活。

 

前年からの常軌を逸した忙しさから解放され、ゆっくり身体を休められたと同時に、演奏の不調とも徹底的に向き合い、1から基礎を見直しました。

その甲斐もあっただろうし、過密すぎた演奏スケジュールから解放されたという心の余裕も助けになったのでしょう。

調子はだんだん元に戻り、2週間が過ぎてからは主に尾道で過ごし、今ぞとばかりに、新しいレパートリーの開拓や、以前の記事でも書いたとおり、いずれは取り組まないといけなかったオーディションの準備など、ありあまる時間を練習にあてていったのです。

 

そして、本格的に弓の会の子どもたちのレッスンの責任を引き受けたのも、このとき。

いつフランスに戻れるかわからない、もしかしたらこのまま完全帰国になる可能性もちらつく中で、これが新たな自分のやりがいに。

日本も緊急事態宣言が発令され、これをきっかけにオンラインレッスンの分野を開拓。

このことによって、今に至るまで、フランスにいながらにして指導ができるようになりました。

音楽休暇村の発足、アンサンブルアカデミーの代表引き受けなども、この一時帰国がきっかけとなりました。

 

ほかに良かったことは、衰えていく父と、ある程度まとまった時間が過ごせたこと。自粛の世の中とはいえ、尾道は比較的飲食店も開いていて、機会をみては飲みに連れ出したり、家で鍋をしたりしました。

この時間がもてないまま逝ってしまっていたら、かなり心残りだったと思います。

とはいえ、その父の他界も、最終的にはコロナが原因なので、なんとも皮肉なものですが。

 

あとは、車の免許もこのタイミングで取ってしまいました。

フランスで運転することを念頭に、マニュアル車で。

その日本の免許、いまとなってはフランスでは何の役にも立ちません。

なぜそんなことになったかは、またいつか別の記事で。

ちなみに未だ、日本での運転経験ゼロです。

 

こうしたリセットの時期を経て、8月になって、5ヶ月ぶりにフランスへ戻ったのでした。

(ちなみに以後3回、帰国のたびに2週間自宅待機を経験し、しかも公共交通機関は使わずに帰れということで、関西空港から広島の自宅まで「ハイヤー」を利用。うち1回は関西空港のホテルで3泊隔離されてから、と、ヨーロッパ在住者がみなさんされたことを、一通り経験しました・・・)

 

戻ってすぐ、スキー・リゾート地のフレーヌ(Flaine)の講習会にトリオで参加。

元イザイ・カルテットのメンバーらが教えてくれて、受講料はスカラシップで無料同然、コンサートの機会もある、ということで、これもまたジェレミーの提案で行くことに。

これ、すごく良かったです。

イザイ・カルテットの第2ヴァイオリンだったリュック=マリー・アゲラ氏や、今はダネル四重奏団チェリストのヨヴァン・マルコヴィチ氏、そしてアトス・トリオのピアニストのトーマス・ホップ氏らが、それはそれは親切にアドバイスをしてくれました。

このタイミングで録音したメンデルスゾーンのトリオ1番。

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このとき私は同時進行で、人生初のオーディションの準備もしていて、コウジロウに伴奏してもらって、ジェレミーに聴いてもらったりもしました。

緊張したけれど、これをきっかけに、オーディションを受けるたびに友達に聴いてもらう習慣ができました。

初開催の音楽休暇村の準備などもしつつでしたが、コロナ禍を経て久しぶりにフランスで仲間たちと過ごす音楽の時間は、とても充実していました。

山登りやボウリングもしたものです。

真ん中の女の子はジェレミーの婚約者でヴァイオリニスト、トリオと関係ありません!

 

その直後、ベルギーのエリザベート王妃音楽院の入試を受けて、めでたくこちらのアーティスト・イン・レジデンスという形で、アルテミス・カルテットのメンバーや、ミゲル・ダ=シルヴァ氏らのマスタークラスを受けつつ、いろいろなプロジェクトに参加できることになりました。

CD「Parlando」に収録した、エネスコのトリオをレコーディングしたのも、ここのホールです。

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それからパリ音楽院の修士課程にも在籍。

私にとってはQuatuor Daphnisに続いて、2つめの室内楽修士という形になり、ここではクレール・デゼール氏や、イタマール・ゴラン氏に習うことができました。

翌年春に開催される予定だった(結局、コロナ禍で中止)、ハイドン国際室内楽コンクールに向けて、レパートリーを増やしたり、予備審査の動画を作ったりと、トリオとして順調に滑り出し、私の中では、当分トリオでの活動に注力していってもいいなと思っていました。

 

ひとつの転機となったのは、ジェレミーQuatuor Arodへの入団が決まったこと。

2016年のARDミュンヘン国際コンクール優勝、フランスの若手を代表するカルテットですが、創立メンバーのチェリストが指揮者に転向し、新しいチェリストを探しているとのことで、複数の候補者と試演を重ねているということは聞いており、その結果めでたく彼が選ばれたわけです。

ジェレミーは、カルテットで生きていけるならそれが本望だったそうで、まさしく彼にぴったりのキャリアが開けた、ということになります。

 

Arodは、年に世界中で何十公演もこなす売れっ子の団体。当然ながらリハーサルも毎日のように組まれていますし、カルテットでの公演があくまでも最優先になります。

トリオ・コンソナンスとしての活動が、我々の音楽活動のメインを占めるものでなくなることは、自明のことでした。

 

これからトリオでの活動を広げていきたいなと思っていた私は、もちろん少し残念でしたが、彼の門出を祝う気持ちも大きかったし、これを機に私も本格的に、コンサートマスターのキャリアを目指していこうと、決心がついたのでした。

その後、演奏の機会は少なかったものの、いくつかの思い出深いコンサートがあります。

 

2021年3月には、日仏のお客さんに向けたオンライン配信コンサート。

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8月にはラ・ロック・ダンテロン音楽祭へ。

2022年は「Parlando」のレコーディングと、パリ室内楽センターでのメンデルスゾーン2番の6回公演。

 

2023年には、中国・ハルビンでのシェーンフェルド国際弦楽コンクールに出場し、第3位をいただきました。

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その他にも小さなサロンコンサートや新曲初演など、思い出せばいろいろやったものです。

 

そしてその年、私はオーヴェルニュ管弦楽団に入団。

コウジロウは、Trio Pantoumのメンバーに。

こうして事実上、トリオ・コンソナンスとしての活動には、ひとまずピリオドが打たれることとなりました。

 

できることなら、もっともっとこの3人でいろんな曲に取り組んで、いろんなステージに立ってみたかったけれど、これもまた運命の流れ。

そして4年間の活動で学んだことは計り知れず。

ジェレミーには、音程の取り方、楽譜の読み方、和声の感じ方など、私がなんとなくでやってきたことを、たくさん理論的に教えてもらいました。

カルテットで活動し始めてからは、さらに磨きがかかっていましたね。

しかもただ教わるだけでなく、その本人と一緒に弾きながら実践できるわけなので、それは身につくに決まっています。

コウジロウは、弦楽器のことを知り尽くしている(兄貴の修一くんは、スーパーヴァイオリニスト)こともあり、ピアノと弦楽器でどのようにアンサンブルをすり寄せていくか、彼のアンテナに学ぶことが多く、いまアンサンブルアカデミーで、ピアノの受講生の方にも曲がりなりにもコメントできるのは、彼との共演の積み重ねのおかげだと思います。いいピアニストと弾くこと、本当に大事です。

 

カルテットの記事でも書きましたが、大事なことなのでもう一度コピペします。

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これから留学する方、ヨーロッパの音楽を吸収しようと思ったら、現地の同世代の仲間と室内楽をやるのが一番です。

すでに友達同士の彼らのところに、日本人が分け入っていくのは、並大抵のことではないけれど、なんとかしてそのチャンスを見つけてほしい。

 

もちろん先生に習うことも大事です。

でも一緒に弾く仲間からの影響はそれを超えてくるものがあります。

波長も合わないと感じるだろうし、自分の美学や常識そのものがひっくり返されるので、最初はとてもつらい。

でもそれを乗り越えるといつのまにか、作曲家と同じ息遣いを自然と感じる自分に出会えます。

音のセンスから、フレーズ感から、和声感覚から、なにからなにまで。

自分が心からそう思うようになるのです。

先生にこう言われたからこうする、の次元ではできないことです。

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以上、トリオ・コンソナンスのお話でした。

 

フランス滞在記⑧ 〜堀米先生〜

トリオの話はいったん途中で置いておいて、先にもう一つ、大切な出来事をお話しします。

2018年の堀米ゆず子先生との出会い。

パスキエ先生のもとで3年間、とにかく自由に表現すること、レパートリーを広げること、なにより一人の音楽家として自分を認めること、そうした点で大きく成長することができ、そうこうするうちに室内楽中心の楽しい生活が広がっていたわけですが。

当時まだ25歳、純粋にヴァイオリニストとしてもう一皮剥けておきたい、という思いも湧いていました。

自分のいいところを伸ばすだけでなく、足りないところときちんと向き合いたい。

良薬は口に苦しというし、苦手なことや、楽しいばかりではないことも、今から逃げていないで、乗り越えないといけない、と。

コンマスのオーディションを受けるにしても、ソリストとしての力量がなければ、どうにもなりません。

 

その頃、堀米先生のブログを愛読していました。紡ぎ出される親密な文章にすっかり惹き込まれ、こういう気持ちでステージに立ち、作品に向き合っている方に、今の自分に何が足りないか見ていただきたい、と思ったのです。

するとエクサンプロバンスの夏期講習会で指導されることを知り、さっそくコンタクト。

単なる引っ込み思案により、あちらの先生、こちらの先生と、レッスンを受けて回ることがあまり得意でない私にしては、悪くない行動力。

ちょうど準備していたコンクールの課題曲を持って、乗り込みました。

久しぶりに日本人の先生に教えていただくということもあり、私はド緊張でしたが。

 

モーツァルトはなんとなく綺麗に弾けてしまうのではダメで、キャラクターの描き分けが命。

バッハはフラフラしないで骨格のしっかりした音で。

イザイは慌てずきちんとしゃべりきる。

 

フランスの音楽家たちの流麗な音楽作りにひたって、やわらかく、流れるように、それが何でもかんでもよいことなんだ、と安直に誤解していた私。

バッハやモーツァルトの音楽をきわめ、ドイツとフランスに挟まれた、ベルギーという国を拠点に、世界を巡ってこられた先生だからこそ、言語化して指摘してくださったこと。

まだまだ先が見えず、コンクールへの未練もある私に、何が足りないのか、しっかり向き合って、言うべきことを言ってくださいました。

パガニーニがまったく弾ききれずに撃沈したレッスンのあとは、いろいろ悩みを聞いてくださったし、受講生発表会でイザイを弾いたあとは、良かったところも励ましてくださいました。

大学2年ころまで日本でもがいたあと、フランスに来て3年経つまでの約5年間、どちらかというと、いつもポジティブに楽しく練習していた私にとって、また自分の至らなさと向き合うのは、しんどい部分もありましたが、絶対に必要な時間だったと、いま思っています。

 

そういう経緯があって、2019年の秋から、先生が教えておられるブリュッセル王立音楽院に、ヴァイオリンのレッスンのみで履修登録をするという形で、通うことになりました。

前の記事でも書いたとおり、その頃はいろいろと調子のよくないことが続いていて、入試の曲を準備するのもつらかったし、その状態でレッスンに伺うのも、不本意な部分がありましたが、それでも励ましてくださったことや、もう一度ヴァイオリンという楽器そのものにしっかり向き合う機会をもてたことは、自分の中でかけがえのない財産となっていました。

 

コロナ禍でも時々ビデオレッスンをしてくださり、その後2022年の春まで3年間にわたって、先生にはお世話になりました。

願わくば、もっとソロのレパートリーをいろいろ勉強したかったのですが、コンサートマスターになりたいという思いも応援してくださり、オケスタも見ていただきました。

音楽休暇村やアカデミーのオーガナイズでバタバタしている私でしたが、まだ若いのにそんなことしていないで練習しなさい、ともおっしゃいませんでした。

2021年の夏には、イタリアのブレシアの講習会にも参加し、弱りゆく父のことなんかも聞いてくださって心が軽くなったものです。その秋には山形での弦楽合奏のコンサートにお誘いいただき、先生の隣でモーツァルトの最難関、ディヴェルティメントK334を勉強させていただいたのは、とてつもない経験で、今でもモーツァルトをやるときは、先生から教わったことがいつもベースになっています。

アンサンブルアカデミーにコントラバスの幣さんが来てくださるようになったのも、このときにお知り合いになれたからです!

 

オケのオーディションを受けるにあたって、モーツァルトのコンチェルト、ブラームスのコンチェルト、そしてオーヴェルニュで出たバッハの課題など、ソロのレパートリーを不安なく自信を持って毎回弾けたのも、間違いなく先生のところで鍛えていただいたおかげ。

 

先生ご自身の演奏を拝聴する機会も多く、オケで伴奏させていただいたベートーヴェンのコンチェルトをはじめ、スコットランド幻想曲や、エクサンプロバンスで弾かれたバッハのパルティータ2番など、有無をいわせぬ圧巻の音楽、一瞬たりとも聴くものの心を離さない求心力。これがソリストとして40年以上弾いてきた人のヴァイオリンなんだ、と思い知らされる演奏ばかりでした。

私は先生のようにコンクールで優勝したりはできなかったけれど、自分なりの生き方を見つけ、やりたかった仕事をやれている私に、「いつも応援していますよ」とメッセージを下さいます。こんなに心強く、ありがたいことはありません。

 

また日本かヨーロッパで、先生の演奏を拝聴しに伺いたいものです。

フランス滞在記⑦ 〜トリオ・コンソナンス結成〜

2025年初投稿・・・。

バタバタした生活の中では、なかなか書きづらいテーマとはいえ、もう8月最終日!

そして昨日、私はめでたく、フランスに移住して10周年を迎えたのでした。

ちょうど10年前の様子はこちら。

 

そしてなんと今、10年前と全く同じように、バスク地方に滞在しています!

明日からサン=ジャン=ド=リュズでゲストコンマスのお仕事なのですが、今はつかの間の休みで、スペイン側のサン=セバスチャンに。

サン=ジャン=ド=リュズのラヴェルアカデミーでフランス生活をスタートした私が、10年後、コンマスとしてサン=ジャン=ド=リュズのラヴェル音楽祭に戻ってくる。

こんなご縁ってあるのか・・・感慨深いものです。

 

さて、2018年秋のCNSMDP(パリ国立高等音楽院)入学あたりでストップしていたフランス滞在振り返り記録。

次に書かなければならないのは、やはりトリオ・コンソナンスのこと。

 

Quatuor Daphnisでは第2ヴァイオリン専門だった私。

そのカルテットも、日常的に活動していたわけではなく、コンサートの機会があるときに集中的に練習するという感じでした。

そんなこともあり、ソリストとしての側面と、室内楽としての側面と、両方発揮できるピアノトリオもやってみたいな、と自然に思うようになりました。

 

誰と組むのか?と考えたとき、私の中では「この人だ」と決まっている(勝手に!)チェリストがいました。

2016年夏のRencontres de Violoncelle de Bélayeで初共演したジェレミー・ガルバーグ。

チェリストとして、これから国際コンクールに出場しながら、ソリストとしてのキャリアを築いていくための、準備段階にいる感じがしました。

フランスに来てまもない私が、仲間に入れるように心配りをしてくれ、とても思いやりがありました。

 

自然と仲良くなり、その後、私から2回、彼からも1回、室内楽の本番を誘い合ったことがあり、スイスの小澤アカデミーでも一緒、オケの仕事も何度か一緒にやりました。

 

曲に対する彼の探究心と誠実さ、そして向上心に私は毎回刺激を受けており、こういう人と組めれば、自分ももっと高みにいけるんじゃないか、と思っていました。

しかし、向こうはいくらでも共演者がいるだろうし、そもそもソロのコンクールに集中したい時期かもしれない。

こちらから声をかけるのは憚られました。

 

そんな中、2019年の春、パリ室内楽センターのシーズン最後のコンサートで、そのシーズンに出演したプレーヤーが一同に会する、お祭り的なものがありました。

この企画の趣旨は、「何の曲を弾くかは事前に知らされるけれど、誰と弾くかはステージに出てみるまでわからない」というもの。

当然、リハもできないので、ほぼお遊びに近いものなのですが。

ここで私は確か、ドヴォルザークピアノ五重奏曲の1楽章と、ブラームス弦楽六重奏の1楽章をあてがわれ、ゲストには、なんとヴィオラのアントワン・タメスティが!

そういうコンサートなので、弾いていないときは客席で、仲間のぶっつけ本番の様子を笑いながら鑑賞する、という感じ。

 

このコンサートの数日後だったと思います。

ジェレミーから短いメッセージが来ました。

「集中的に室内楽をやりたいと思っているんだけど、一緒にトリオやらない?」と。

まさかの展開。

私が誘うのを憚っている間に、向こうから誘われてしまいました。

私のぶっつけ本番の演奏を見ていて、何か、いいなと思うところがあったんでしょうか。

もちろん即、OKの返事をしました。

 

あとはピアノを誰にするか、でしたが、これもすぐに二人の意見は一致しました。

岡田浩次郎くん(フランス生まれ、フランス育ち、言語も基本的にフランス語で話すので、漢字で書くのはなんだか不思議な感じがしますが)。

その2〜3ヶ月前のパリ室内楽センターの公演で、都合がつかなくなったピアニストのピンチヒッターとして呼ばれて、ベートーヴェンのピアノトリオ第3番の1楽章で私は初共演していました。

当時19歳。

急に呼ばれて、トリオ、クロイツェルソナタチェロソナタ、そして悲愴ソナタと、それぞれ1楽章ずつとはいえ、予定通りの演目を見事に弾いていました。

 

トリオの初合わせの様子を、今でも鮮明に覚えています。

アンサンブル・プレイヤーとして、全部見えている、聴こえている。

ほほえみながらこっちの様子を伺い、瞬時にアジャストしてくる。

その余裕と視野の広さ。

あまりにも、すぐスムーズに音楽が仕上がったので、うっかりすると、その彼の凄さに気がつかないほど。

日本でいえば音大1年生相当の年齢ですが、能力と才能が抜きん出ていることは明白でした。

そんな彼も、前述のお祭りコンサートに出ていたのですが、ともかく誘ってみようということですぐに話は進み、彼もOKしてくれました。

 

そこからです。

ジェレミーの行動力の果てしなさを見せつけられたのは。

締め切り数日前のトロンハイム国際室内楽コンクールの情報をすぐに見つけてきて、「まずはこれに出て、レパートリーを作ろう」と。

すぐに合わせをして、ジェレミー自前の録音機器を使って、パリ音楽院の練習室であっという間に録音完了。彼はカメラも持っていて、パリ音楽院の敷地内ですぐにプロフィール写真も撮影完了。

そう、彼はほんとに何でもできる人なんです。

2022年にリリースしたCD「Parlando」では、録音の編集作業からPV制作(ドローンも使って)に至るまで、全部自分でやってのけました。

PVのクオリティは本当にすごいので、ぜひ見てみてください。

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今はフランスの若手を代表するカルテット・アロドのメンバーとして、世界を飛び回る超・多忙な生活を送っていますが、ソリストとしても活動を続けています。この前もバッハの無伴奏5番・6番、すばらしかった。いつの間に練習するんだろう。

プライベートでも、猫は飼うし、スキーはうまいし、卓球もするし、キャンピングカーは買うし。この前はパラシュートで標高何千メートルから飛行したそうです。

楽器も、20代のうちにローンを組んで、イタリアンオールドの名器を自分のものに。

今年は結婚し、家も建てるそうです。

 

なにか一つのことに集中すると、もう他のことには手がつかず、もうテキトーでいいやー!いつか時間があるときに!・・・となってしまう私とは大違い。

音楽にとことん身を捧げ、飽くなき探究心を持ち続け、しかもチェロの練習もずっとしている(中国のコンクールをトリオで受けに行ったとき、なんと同時開催のチェロ部門でも出場し、しかもドヴォルザークのコンチェルト弾いて優勝したのは、ぶったまげたなあ)。

そうでありながら、新しいことには何でも興味を持ち、すぐ勉強して資格を取ったりして、自分でもやってみようとする。

とても真似できない姿で、自分もそうなろうとは夢にも思いませんが、ただただ尊敬しています。

 

そんなこんなで、もし私だったら数年先に先送りしそうなことを、すぐに実行するジェレミーのおかげで、私たちはトロンハイムの予備審査に受かり、秋にはノルウェー行きが決定。

「レパートリーを作ろう」という彼の言葉通り、ベートーヴェンブラームスラヴェルシューベルトの傑作に取り組むことになりました。

夢だったトリオが、こんな素晴らしい2人と組めて、本当に嬉しかったのですが、カルテットの記事でもちょっと触れたとおり、この頃、演奏面でも、心身の健康面でも、あまり私は調子が良くなく。

忙しすぎたのと、もろもろのストレスがあり、どうも自分の本領が発揮できない時期にあたってしまいました。

 

そんな中でもジェレミーは寄り添ってくれて、いろいろと助言をくれたし、男3人ということもあって、仲が良いながらもあっさりした人間関係のおかげで、私はずいぶん助かりました。

調子がいまひとつなことに歯がゆい思いをしながらも、このトリオで演奏すること自体は、とても楽しかったのです。

 

そうこうするうちに、世界をパンデミックが襲い、トリオも活動中断を余儀なくされます。

このコロナ禍によるロックダウンが、私にとってはいろいろと転機に。

次回に続けます。