オーヴェルニュの楽屋通信

日仏で活動するヴァイオリニスト小島燎のブログ。広島、京都、パリを経て、現在オーヴェルニュ地方クレルモン=フェラン在住。フランス国立オーヴェルニュ=ローヌ=アルプ管弦楽団コンサートマスター。「しまなみ音楽休暇村」「アンサンブルアカデミーinしまなみ」代表。

フランス滞在記④

最初の年、文化庁新進芸術家海外研修制度で行かせていただいた私は、1年間日本に帰ることができない身でした。

日の短い冬を迎えると、なんとなく心も暗くなってきて、ホームシックとはいかなくても、気分が沈むこともありました。

しかし今考えると、1年間フランスに留まったというのはとても貴重な経験で、異国でなんとか自分の居場所を見つけてやっていくという、覚悟ができた時間だったと思います。

もし最初の年から日本と行ったり来たりしていたら、もしかすると日本の居心地の良さ、仲間や家族の存在に甘えてしまい、フランスでちゃんと1人で生きていこうとしていなかったかもしれません。

2年目からはかなりの頻度で日本と往復するようになりましたが、すでにフランスが自分の本拠地だ、と思っていたので、それほど日本が恋しくなったりも、フランスに愛想を尽かすこともありませんでした。

 

というわけで、1年ぶりの帰国を満喫し、2年目を迎えた2016年の秋。

2012年のラヴェルアカデミーで一緒に弾いたチェロのアレクシから、一通のメッセージが届きました。

「カルテットを組まないか」との誘いでした。

アレクシとは、この少し前に久々の共演を果たしていて、パスキエ先生&フレンズということで、ラヴェルシューベルトのカルテットをやったのでした。

その時、私は1人でイザイの6番のソナタも弾いたのですが、彼は興味津々に本番も客席で聴いてくれていた。

そのとき、私の演奏をいいなと思ってくれたそうです。

 

カルテットを組むお誘いは、それまでも何人かの方からいただいていたのですが、パスキエ先生のところでソロのレパートリーに取り組むと決めた以上、1年目からカルテットに没頭するのはちょっと・・・と当時は思っていたのでした。

まだこの先自分がどうなるのか、まるで見えていない段階だったので。

 

ただ1年経ってだいぶ様子がわかってきて、カルテットもいつかは本格的にやらないといけないとは思っていましたし、彼の様子からして、ただの人数合わせで誘われているわけではないこともわかったので、これは運命かなと思って、引き受けることにしました。

 

ダフニス四重奏団、Quatuor Daphnisの結成です。

もちろん「ダフニスとクロエ」のダフニスです。

メンバーは、ファーストがエヴァ・ザヴァロ、セカンドが私、ヴィオラヴィオレーヌ・デスペルー、チェロがアレクシ。

ヴィオレーヌはここ最近、サイトウ・キネン・オーケストラでも毎年来日しています。

エヴァは、今年の音楽休暇村に来てくれて、初めて日本でも共演しました!

エヴァは当時、ミュンヘンユリア・フィッシャーに師事しながら、すでにフランスでもソリストとして活躍中でした(お父さんは作曲家、お母さんはフランス国立管の第2コンマスという音楽一家)。

そんな彼女らが色々なところのツテを回ってコンサートの機会を引っ張ってきてくれて(私はもちろんそんなコネはない)、2017年の夏には旗揚げ公演を敢行。

 

それぞれの活動が忙しかったこともあり、練習は集まれるときにまとめて、という感じでした。

パリ音楽院の学生同士で結成するとなれば、毎日でも集まって練習するので、それに比べればかなり緩め。

それでもコンサートが近づくと、エヴァの祖父母のお城(!)で合宿するなど、根を詰めて練習しました。

プログラムは、モーツァルトニ短調(15番)、シューベルトの断章、そしてラヴェル

 

とにかくイマジネーションが豊富で、音楽的な引き出しも膨大にあり、音楽的主張がはっきりしている彼ら。

最初は自分がどう思うかとかよりも、彼らの思っていることや感じていることを理解しようとするだけで精一杯、という感じでした。

そうでなくたって、フランス語で熱くディスカッションが始まれば、この話好きな私が、ひたすら聞き役になるのも、当然。

譜面をとりあえず形にするなんて次元ではなく、楽譜の行間からなんとか新しいひらめきを見つけようとする彼ら。

縦の線をきっちりさせることしか最初に思い浮かばない私と、それを壊してでも流れを作りたいエヴァ

フレーズや和声的に自然ではない形で、アンサンブルが揃っていても全然ハッピーじゃない。

音程感もきわめてセンシティブで、私のものさしは通用しない。

彼らが弾きながら、当たり前のように感じていること、聴き取っていることを、私は感じられない、聴き取れない。

 

いや、この前の音楽休暇村のシューベルトの五重奏でこそ、エヴァとはお互いの手の内をわかり合って弾けた気がしたけれど、この当時は、他の2人も含め、彼らと同じ土俵に立つこともできず、しかも言葉の壁もある。

念のためですが、彼らは本当に最高の人たちです。

ただ、どんな人間が集まっても、4人という人数は本当に難しい。

 

完全に自分を見失った時期もありました。

あれこれ考えすぎ、本当にヴァイオリンの弾き方がわからなくなったこともあった。

彼らの考えを汲み取りながらカルテットで弾いている時の自分は、まるで自分自身じゃないような気がしてきたことも。

こんなのカルテットあるあるで、全然特別なことじゃないと思います。

 

しかし、このダフニスでの経験は、今の自分にものすごく役立っているなと思います。

フランスの若い世代が音楽をどう見ているのか。どういう美学で音を出しているのか。

それに対して私に足りないものはなんなのか。

初めて見聞きすることばかりでしたし、私が当たり前だと信じていたことが、むしろタブー視されることも。

そういうことを実地で、肌で感じることができました。

いま、音程の取り方ひとつにしろ、フレーズの運びにしろ、ひとまず自分なりの考えをまとめて言えるのも、彼らに裏付けてもらったことだ、という意識もあってのことだと思います。

それは音楽に直接関わる部分だけでなく、感じていることを伝える言葉の引き出しだったり、まず何に最初に注目するかという順序だったり、もあります。

カルテットをやる前の自分では、どうにもならなかったと思います。

当時はまったく感じられなかったこと、聴き取れなかったことが、今では自分の中の常識に置き換わっています。

 

その後もコンサートの機会があるごとに練習、という感じのままでしたが、フィルハーモニー・ド・パリの若いカルテットのためのコンクールで入賞したこともあったし、時々は音楽祭にも呼んでもらえることもありました。

まだ初心者マークのアレクシの運転でツアーしたこともあったし、当日になって急にレンタカーの予約がキャンセルになり、エヴァのお父さんに急遽助けてもらったこともあった。

パリでオペラもやったし、プラハにも行ったし、france musiqueの生放送にも出た。

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そしてパリ国立音楽院室内楽修士課程に入ったのも、このカルテットで、でした。

結局あまり多くのレッスンは受けられなかったけれど、ジャン・スレム先生の温かいまなざし、エベーヌQやモディリアーニQのマスタークラスなど、印象深い思い出はいろいろあります。

しかしこの入学にあたっては、私のディプロマ問題をめぐり、事務との壮絶なバトルがありました。

別の記事で改めてお話しします。

 

音楽のこと、それ以外のことで、ケンカも何度も起きた。

いろいろと耐えられなくなって、私がコンサートを降りてしまったこともあった。

当時は、幸せなことの倍くらい、悩んだことが多かったかもしれない。

それでも、彼らと真剣にカルテットをやったことは、全く後悔していないし、本当に感謝しています。

アンサンブルアカデミーの指導ができるのも、彼らのおかげです。

いろいろあって、コロナ禍を機に活動停止となりましたが、メンバーのそれぞれとは、これからも一緒に弾けたらいいなと思っています。

 

もちろんエヴァとは音楽休暇村で弾いたばかりだし、ヴィオレーヌとは来夏、ゴルドベルク変奏曲をやることになっているし、アレクシとはナントのラ・フォル・ジュルネに行きます。

 

フランスは、本気になれば、カルテットだけでもほぼほぼ飯が食えるシステムになっています。若いカルテットを応援する仕組みもいろいろあります。

同時期にパリ音楽院に在籍していた他のカルテットは、本当にその道に人生を懸けて取り組んでいて、毎日顔を突き合わせ、コンクールにも次々に出ていました。

そういう本物のカルテットのあり方には、及ばない私たちだったと思います。

自分たちでもそう言っていたし、その事実にフラストレーションを溜めることもあった。

でもカルテットに命をかけようとは、最後まで思えませんでした。

 

それでも言えること。

これから留学する方、ヨーロッパの音楽を吸収しようと思ったら、現地の同世代の仲間と室内楽をやるのが一番です。

すでに友達同士の彼らのところに、日本人が分け入っていくのは、並大抵のことではないけれど、なんとかしてそのチャンスを見つけてほしい。

 

もちろん先生に習うことも大事です。

でも一緒に弾く仲間からの影響はそれを超えてくるものがあります。

波長も合わないと感じるだろうし、自分の美学や常識そのものがひっくり返されるので、最初はとてもつらい。

でもそれを乗り越えるといつのまにか、作曲家と同じ息遣いを自然と感じる自分に出会えます。

音のセンスから、フレーズ感から、和声感覚から、なにからなにまで。

自分が心からそう思うようになるのです。

先生にこう言われたからこうする、の次元ではできないことです。

 

変な話ですが、練習の時間にちょうどいい感じに遅れていく、なんてこともできるようになります。

たった10分遅れて謝る人なんてどこにもいません。

心の持ちよう、時間感覚、そのあたりも少しずつ、フランスの波長に合わせていくのです。

 

以上、フランスで初めて組んだ室内楽グループ、Quatuor Daphnisのお話でした!

次に組んだトリオ・コンソナンスが、さらに私の視野を広げてくれる存在となります。

 

次回へ続く。

フランス滞在記③

エコールノルマルの高等演奏課程に入った私。

いまは変わったそうなのですが、当時は第6課程後期、という位置付けで、その上はコンサーティスト課程というのだけがありました。

 

音大を出てくれば、初見とか音楽史とかの副科は免除されるけれど、私は全部やらないといけないのかと思っていたら、あっさりすべて免除されました!

「どこの大学を出たんだ」と聞かれ、「京都」と言ったのが、ひょっとして京芸と間違えられたのですかね?

そのときはラッキーと思ったのですが、後々問題になって、ディプロマもらえなかったら、滞在許可証にも影響するし、とちょっとドキドキでした。

結局何の問題もありませんでしたが。

 

室内楽だけは必須ということで、ド=ビュシー先生という、ラヴェル・トリオで長年活躍したピアノの先生のクラスに配属されました。

そこで最初はピアノとのデュオ、後からピアノトリオを組むことになりました。

皆さん、日本人の方でした(フランス人はほとんど在籍していません)が、それまで同じ人と長期にわたってアンサンブルをしたこともなかったので、すごく楽しくて、ブラームスの雨の歌、ドビュッシーソナタブラームスの1番・3番のトリオ、ラヴェルドヴォルザークドゥムキーフォーレドビュッシーモーツァルトメンデルスゾーン1番、ベートーヴェン「幽霊」、かなり色々と勉強しました。

特にトリオでは結構たくさんコンサートの機会ももらって(なんせ、ティボー、カザルスとトリオをやっていたコルトーの学校ですし)、いい経験になりました。

次の年にやってきたヴィオラの田原綾子さんともいっとき、デュオをさせてもらって、モーツァルトとか弾きました。これも素敵な思い出です。

 

パスキエ先生に誘ってもらって、ポンティニー修道院で弾かせてもらった時の♪

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さて、パスキエ先生の言いつけにしたがい😆、しばらくはソロのレパートリーを続々開拓していった私(コンチェルトだとブラームス、ラロ、ベートーヴェンコルンゴルトプロコフィエフ1番、ブラームスドッペル、メンデルスゾーンニ短調、バッハ2番、モーツァルト3番、ソナタだとプロコフィエフ2番、ブラームス1〜2番、ベートーヴェン5・7〜8番、シューマン1番、シューベルト幻想曲、エネスコ3番、ラヴェル遺作、ほかバッハのシャコンヌ、1番のパルティータ、イザイの2番、ロンカプ、シューマンの幻想曲、ストラヴィンスキーのイタリア組曲、デュオ・コンチェルタンテ、などなど)。

 

しかし同時に、フランスが室内楽大国であることを徐々に理解しはじめ、最初からソリストになろうとあまり思えていない私は結局、自分からもそちらになびき、周りからもそちらに誘われていくのです・・・。

 

まず、チェリストのロラン・ピドゥー氏との出会いがありました。

パスキエ先生に紹介していただき、よくわけもわからないまま、いきなり1人でパリのご自宅に会いに行ったのです。

そのまま会話の流れで、ご自身が主催される音楽祭「Rencontres de Violoncelle de Bélaye」に招待してくださったのです。

私の演奏を一音も聴かずに。

なんでも「たいていのヴァイオリニストに批判的なレジスがベタ褒めするから、あなたのことを信じている」と言ってくださいました。

そんなんじゃないんだけどなあ😅

 

同世代の若いチェリストたちをはじめ、素晴らしい音楽家が集まる夏の音楽祭。

私にとって初めての音楽祭への招待でした。

その年はロシア作品が中心で、またチャイコフスキーフィレンツェリムスキー・コルサコフの六重奏、グリエールの8つのデュオ、グリンカのピアノトリオ、あとブラームスゼクステット1番など、いっぱい弾いた。

ロット県の、美しい小さな村で過ごす2週間。

世界に羽ばたく前のアレクサンドル・カントロフもいて、さんざん遊んだものです。

後にトリオを組むことになる盟友チェリスト、ジェレミー・ガルバーグと出会ったのも、ここでした。

バーベキュー、プール、卓球、ワイン、鴨料理、川、星空。

それはそれはもう、楽しかったです。

みんなはパリ音楽院でも同世代、なんなら小さい頃から幼馴染だったりする中、私みたいなのが急に入り込んでいっても、全然居心地が悪くなかった。

フランス人でないのは自分だけ。まだフランス語もたどたどしかったけど、一緒の生活も苦にならなかった。

この音楽祭は翌年も行かせてもらいました。

 

それから、パリ室内楽センターとの出会いがありました。

「エコールノルマルの学生を対象に、パリ室内楽センターがオーディションをします」という情報だけが回ってきて、パリ室内楽センターが何なのかはさっぱり分からないまま、室内楽ができるなら!と名乗り出たのですね。

 

それでオーディションで10分かそこら弾いたところ、なんと、受かってしまったのです。

後になってわかったのですが、パリ室内楽センターは、サル・コルトーを拠点に、音楽を新しい切り口で「見せよう」とする取り組みをしている団体で、音楽を可視化する、つまり演奏家が音楽の構成に沿って舞台上を移動したり、映像や衣装・小道具を使ってオペラのように室内楽作品を上演したり、という、相当に斬新なことをやっています。

日本語でわかりやすくレポートしている記事はこちら

 

サル・コルトーはエコールノルマル音楽院のホールなのですが、貸しホールとしても機能しています。提携関係を強化しようとして、エコールノルマルの学生を起用しようと考えたのでしょうね。

オーディションに受かったというのは、次のシーズンの企画に起用されるということで、プーランク「仮面舞踏会」に参加することになりました。全部で本番が10回!

舞台上での動きもあるので、基本的にはすべて暗譜。

室内楽の曲を暗譜でやるというのも初めてで、それはとても新鮮な感覚でした。

みっちり10日間、音楽と演出を練習するのですが、ここで自分の新たな一面も見つけました。弾きながら歩くとか、音楽に合うタイミングで動くとか、結構得意だったのです。

劇とか苦手なはずだったのに・・・

単なる音符だったものが、目に見える形で一つのショーとして構成されていくのが、とても面白い体験でした。

これだったら、クラシック知らないお客さんでも、存分に楽しめるなと。

この団体とはその後何年も関係が続き、メンデルスゾーンのオクテットマーラーのさすらう若者の歌(シェーンベルク編)、兵士の物語、ベートーヴェンの大フーガ、動物の謝肉祭、ショーソンのコンセールメンデルスゾーンのトリオ2番・・・合計でたぶん100回近い本番をやらせてもらいました。

共演した仲間も、パリを拠点に活躍する気鋭の若手ばかりなので、同世代の音楽家たちもたくさん聴きに来るし、結構な著名人も出入りしていました。

いつのまにか、みんな私のことを知っている状態に。

ひょっこり京大からエコールノルマルに留学してきて、こんなことに巻き込まれよう(もちろん、いい意味で)とは思ってもみませんでした。

 

本当に書き尽くせないほど、楽しい思い出でいっぱいです。

 

こうしたことがきっかけで、情報が回り回って、他の室内オケに呼ばれたり、映画音楽専門オケのコンマスを頼まれたり、ほかのお仕事も来るようになりました。

パスキエ先生との時間、ソロの勉強の時間は確保したかったので、全部が全部はやりませんでしたけれど。

 

このような展開となったのは、ひとつには、パリのヴァイオリニストの層が、チェロやピアノに比べると分厚くない、というのも幸運だったのだと思います。

ソリストとしてよく弾けて、かつアンサンブルもできて、コンマスもできて、人間的にも変わりすぎてなくて、みんなと仲良くできて、時間や約束を守って・・・という、バランスの取れた弾き手が、そんなには多くない。

チェロなんかだと、もうみんなソリストとして、信じられないほどよく弾ける。2017年のエリザベートコンクールのチェロ部門のファイナルに、4人もフランス人が残ったのも、それをよく表しています。

ヴァイオリン部門でフランス人が入賞することは少ない💦

 

そういう、慢性的ヴァイオリニスト不足のパリに、私がぴったりハマった(私だってそういうソリストではないですけど)というのは、あったのかも、と思います。

 

これが1年目の話(それでもだいぶ端折ってますが)。

2年目以降はもっともっと、色々なことがありました。

 

次回へ続く。

フランス滞在記②

コンサートのことだけじゃなく、生活のことも書かなければ、ですね。

最初の3年間、住んでいたのはパリ国際大学都市(通称シテユニ)。

パリに来る留学生や研究者などを受け入れるため、各国がそれぞれ自分の宿舎を持っている、団地みたいなところです。

 

どうやってアパートを探すかなんて右も左もわからない中、ここなら家賃も手頃で、練習もでき、さらに友達もできると聞き、迷わず申請することに。

最初は日本館に書類を送ったのですが、どうも日本館には音楽室が1室しかなく、その当時すでに何人も音楽学生が住んでいるので、他の館に行った方がいいでしょうと言われ、交換制度を利用して、私は結局スペイン館に落ち着くことに。

 

日本人同士で住みたいという希望は特になかったので、とにかく練習できることを優先。

ここの環境は最高でした。

他の館はトイレ・シャワーが基本的に共用なのに対し、この館は部屋にある。そのかわり居住スペースは狭く、10平米もないくらい、でしょうか。

でも、食堂や練習室など、その他の部屋で過ごすことも多いので、そんなに問題はありませんでした。

基本引きこもり体質の私(今日だって家から一歩も出ていない)。

必然的に毎日、受付の人や、他の居住者と顔をあわせるので、最低限、社会の中で生きている実感がありました。

この館にはレストラン(食堂)もあり、朝ごはんは家賃に込み。10時半に閉まるので、どんなに夜更かししても、その時間には起きて、這ってでも下に降りる😁

京都時代は昼夜逆転していたこともありましたが、それは最低限避けられた。

練習室はたくさんあり、ほぼ一日中独り占めできました。

 

この地域(14区)は治安も良く、RERのB線でどこにでもさっとアクセスできるので、立地もいいです。

日本館では定期的にフェット(飲み会)があり、色々な分野の研究で来ている人たちと交流ができました。これは楽しかった!

最初のフェットで出会い、今でも仲良くしてもらっているのは、惑星科学者の兵頭龍樹さん。NASAJAXAの惑星探査計画に直接携わるなど、この分野のまさしく旬の人!

prtimes.jp

私はガチガチの文系頭で、理科は大の苦手ですが、宇宙のこと、星のことは大好きなんです。

小さい頃から宇宙図鑑にかじりついていました(ヴァイオリンをほっぽり出して)。

今年の「音楽休暇村」で星空にまつわるコンサートをしたのも、私の趣味です。

兵頭さんが惑星科学をやっていると知り、それはもう質問攻めにしたなあ。

パリで最初の日本人の友達ができた夜、あの夜は楽しかったです。

他にもたくさんの方々と知り合い、中には日本に帰国後も、演奏会に来てくださる方もいます!

 

さて、シテユニにとりあえず入居し、学校がスタートするまで2週間。

とりあえずやらないといけなかったのは、なんと、いったんEUから出ること!

というのも私のビザは、学校がスタートするちょうど1ヶ月前の9/1から有効だったのですが、ラヴェルアカデミーに参加するために、2日早く8/30に入国してしまったのです。

ということは、旅行者扱いで入国したことに。

学生ビザを有効にして、滞在許可証をもらうためには、9/1を過ぎてからあらためてEUに入り直す必要があったのです。

というわけで、一番近くのシェンゲン外の国というのがアイルランド

ダブリンまでひとっ飛びし、2泊3日、羊を眺めて戻ってきました🐏

 

こんな細かいことまで書いていたら、いつまでも進みませんが。

 

あとは、銀行口座の開設(私はLCLピラミッド支店、日本人のスタッフがいて安心です)、学生定期券(NAVIGO)、住宅補助(アロカシオン)、携帯電話(私は最初はFreeでした)、滞在許可証(初年はOFIIというところに行って健康診断を受け、パスポートにシールを貼ってもらう形でした)、健康保険(セキュリテソシアル)等の事務的な手続き。

※以後、事務的なことに関してはすべて当時の情報です。常に変わるので、最新の情報はご自身で確認してください。

銀行口座や電話番号がないと学校にも行けないので、どうしてもやらないといけないのですが、まあこれが一つ一つ、苦痛なんですよ、最初は!!

フランス語のサイトを読みこなして、正しい時間に正しい場所に行くだけでも、一大事です。まだメトロの路線図も頭に入っていないのに、やれ故障だ、ストだ、と、何一つ予定通りにいかない。

その上、無愛想な係員とやりとりして、散々待たされて、必要事項を記入して、なんだかんだやっていると、一つ片付けるのでも1日がつぶれ、疲労困憊です。

 

1日に1つ片付けるのでも大変でしたが、なんとか頑張りました。

みんなやってることなので、仕方ない。

 

そしていよいよ学校がスタート。

そういえばここまで、私立のエコールノルマル音楽院に入った理由をお話ししていませんでしたね。

 

たしかに、パリといえばパリ音楽院(正式にはパリ国立高等音楽院=CNSMDP)。

私も最初はパリ音楽院に行くもんだと、思ってました。

大好きなパスキエ先生は、残念ながら出会った2011年に定年退官。

習いたくても習えない状況でした。

それで、2013年に最後にいしかわミュージックアカデミーに行った時、相談したんですね。

「あなたに習いたいけれど、それはかなわないから、パリ音楽院で自分に合う先生を紹介してほしい。ドガレイユ先生ですか?シャルリエ先生ですか?」と。

それでパスキエ先生のところにもプライベートで習えたらいいな、というふうに思っていました。

 

そうしたらパスキエ先生がおっしゃったのは「エコールノルマルに話をして、ポストを得るから、そこに来ればいいよ」と。

まさかそんな手があるなんて思ってもいなかったので、驚きました。

 

最初はちょっと躊躇いました。

書類至上主義のフランスでは、国立音楽院の卒業証書がないとダメだとか、人間関係が作れないとか、いろいろ聞いていたからです。

ただでさえ、日本の音大の卒業証書すらない私。

事あるごとにあーだこーだ言われるのも、ちょっとうんざりでした。

パリでは今度こそ、国立音楽院に入って、誰もが認める卒業証書を取るんだ、とも思っていました。

 

しかし最終的には、自分が習いたい先生につく、その気持ちが優ったのですね。

以前の記事のとおり、当時は「自分の気持ちに正直に生きる」ということを実践している最中でしたから。

 

それともう一つ理由があって、パリ音楽院の学部課程に入るには、年齢制限の問題で、大3の冬に入試を受け、大4の秋に入学するというのがラストチャンスでした。

京大の卒論も書きながら留学ということは、その気になればできたとは思いますが、なんだかそのころは、京都での学生生活が1年短くなることが、なんとなく嫌でもありました。なぜか、ちゃんと4年全うしたいと思っていた。

いろいろやりたいことをやっている最中でしたしね。

これでも自分なりに、京都暮らしは楽しんでいたんです。

 

そういうこともあり、最終的にエコールノルマルでパスキエ先生に習う、その方針に決めたのでした。

さらばパリ音楽院(学士がないと、修士からはもう入れないので)、卒業証書のことなんか、野となれ山となれ、という感じでしたね。

※このことに関しては後日談があります。結局、パリ音楽院に在籍せずして、「なんちゃってパリ音楽院学生」的な立ち位置を得てしまうのです。そして最終的には3年後、室内楽科でパリ音楽院に入ることになります。それはまたのちほど。

 

エコールノルマルの学生の大半は外国人なので、事務のおばさんも慣れっこ。

登録作業を完了し、なんとも味わい深い、「手書き」の学生証をいただきました!

いよいよ、パスキエ先生に毎週会える!夢のようなレッスンの日々が始まります。

 

その前に一度、自宅に招いていただいたのですが、そのとき「弾いたことのあるコンチェルトを全部あげてみろ」と言われました。

お恥ずかしながら、全楽章勉強したコンチェルトなんて、数えるほどしかなかった私。

「え?あれもやってないの?これも?」と呆れられました。

いまやるべきことは、とにかくソリストとして、色んな曲をレパートリーにすることだ、と諭されます。

 

私はソリストになるためにパリに来たつもりは全然なかったのですが、その勢いに圧倒され、はい、わかりました、と。

一度も手をつけたことのなかったブラームスのコンチェルトから取り組むことになります。

※今のオケのオーディションで弾いたコンチェルトもブラームスでした。チャイコフスキーシベリウスは選べなかったので、本当にレパートリーになっていてよかったです。

 

しかし、これからはひたすらヴァイオリンを練習していればいいという毎日。

大学の単位とも、卒論ともおさらば。

朝から晩まで練習室を占有して、ただただ弾きまくっていました。

新しい曲の譜面をどんどん買って、見知らぬごちそうを次々に味わっている気分。

パラダイスです。

 

ただ、エコールノルマルに在籍できるのは最大でも3年間でした。

※どの課程から入学するかにより、それが入学時のオーディションで決まります。

そのあとどうするかは、全く見えていない状態です。

学校に在籍するか、オケに入るかしなければ滞在許可証はもらえない(と思っていた)。

3年で何か道を見つけなければ、というタイムリミットは、最初から感じていました。

 

ありゃ、まだ、1年目の出だしですね💦

 

次回へ続く。

フランス滞在記①

パリに留学する日本人はとても多いです。

ただ、私のようにどっぷりとフランス人のネットワークに入り込んで、ほぼ周りはフランス人ばかり、という状況下でずっと演奏してきた。しかもオケにもすぐには入らず、フリーでやっていた時期がある、というパターンは、もしかするとかなり少ないかもしれません。

 

もちろん、留学の目的も多種多様。

どれがいいとか悪いとかいう話ではありません。

日本ですでに立派にキャリアを築いている人が、プラスアルファの勉強で来ることもあります。こういう人は頻繁に日本と行ったり来たりしています。

日本の大学院に進学する代わりに、留学経験を選ぶ人もいます。

現代音楽とか古楽、即興など、特定の研究が目的で来る人もいます。

なにかの奨学金を得て、1年か2年限定で、最初から日本への帰国を前提に来る方もいらっしゃいます。

そして私のように、はじめからフランスでキャリアを開拓するつもりで来る人とか、留学の流れのまま仕事を始める人も、少数ですがいます。

 

そんな私のここまでの道のりを、お話ししていきたいと思います。

フランスに自分の道を見出そうとしている若い音楽家のお役に立てればと思いますし、音楽に限らず、将来海外で仕事を考えている人の参考にもなれば、と思います。

なんせ9年分ですので、長くなりそうです💦

 

2015年8月30日。

この日に私のフランス生活がスタートしました。

始発の新幹線だったのに、弓の会の可愛い子たちが早起きして見送りに来てくれた。

 

京大を卒業して半年。

それまでにどういう経緯をたどったかは、コンクールの記事でお話しした通り。

ちょっとやそっとで日本に帰ってくるつもりは、なかったと思います。

 

フランスといえば、フランス語。

フランス語が話せなければやっていけない国だ、というのは色々な人から言われていました。

大3の春から、京都のフランス語教室に毎週通い、準備していました。

その先生には本当にお世話になり、フランス語の読み書き・会話を、本当にabcから教えていただいただけでなく、私がリサイタルをするといえば、生徒さんにチケットを売ってくださったり、あらゆる面で応援してくださいました。

もちろん、日本で勉強しただけでペラペラになることはありません。

しかし文法をきっちりとやっていったことで、メールなどの読み書きには最初からほぼ不自由がありませんでしたし、体系的に理論をわかっているので、話すことも聴くことも、慣れていくうちに、それほど問題がなくなりました。

ヴァイオリンの腕前以前の問題として、語学力にあまり不安がなかったことが、フランスで自分の居場所を確保する上で、本当に大きなことでした。

※「不安がない」というのは「完璧に話せる」ことではありません。間違いがあっても、怖じ気付かずに積極的に発言できるということです。

先生はいま、オンライン専門で教えていらっしゃって、本当にやる気のある方は私からご紹介しています。必ず、できるようになりますよ。

証拠写真

当たり前だけど、ゼロからやったんだなあ。

 

フランス語のことだけでまた別に記事が書けるくらいなので、またいつかに回すとして、とりあえず留学の話に戻りましょう。

 

フランスに渡航してまず、パリをすっ飛ばしてサン=ジャン=ド=リュズへ直行。

2012年以来となるラヴェル国際アカデミーに参加し、パスキエ先生に合流したのでした(2012年の時のことはこちら)。

このアカデミーのいいところは、ただレッスンを受けるだけではなく、受講生にちゃんとしたコンサートの機会をくれること。

よくある「発表会」形式ではなく、「音楽祭」形式で、ソロなり室内楽なり、全曲を、教会などで弾かせてくれるのです。

立派なパンフレットもあって、全受講生の顔写真やプロフィールもちゃんと載せてくれるんです。

日本から来た無名の若造を学生扱いせず、一人前の音楽家として見てくれるのは、嬉しいものです。

 

私はサン=サーンスソナタ第1番に、シャミナードのピアノトリオ第2番、そしてなんとなんと、パスキエ先生ら講師陣とチャイコフスキーフィレンツェの思い出」をご一緒できることに。

留学の初っ端から、なんとも贅沢な本番。

 

サン=サーンス大1の時に、京都の下宿で汗だくになって練習した、大切で得意な曲。

ラヴェルの生地シブールの教会で、ピアノの船橋茉莉子さんと弾かせていただきました。

その本番のことは、今でも忘れることができません。

 

実はYouTubeにアップしています。

演奏自体はまだまだ未熟。音程があやしいところも色々あり、お恥ずかしいのですが。

演奏はすっ飛ばしていただいて、最後〜拍手のところ(21:00~)だけ聴いてみていただけたらと思います。

www.youtube.com

 

これが、フランスに渡って初めて受けた拍手と歓声。

「フランスの人々が受け入れてくれた」そう感じました。

 

日本のお客さんは、どんなに感動しても、なかなかこんなふうには反応しません。

それは日本人の美徳であり、日本人が無感情なわけではありません。

でも私は、このリアクションがほしかったのです。

よかったならよかった、好きなら好き、と、すぐに言葉と態度で示してほしい(笑)

先生たちも、他の受講生も、すごく褒めてくれた。それも「音楽家」として。

「フランスに来てよかった」心底そう思いました。

 

当時のfacebookにも同じこと書いてますね・・・

 

講師陣とのフィレンツェもまた、壮絶かつ、楽しい経験でした。

vn1 : パスキエ先生、vn2 : 私、va1 : ミゲル・ダ=シルヴァ、va2 : 受講生のナタナエル、vc1 : アンリ・ドマルケット、vc2 : 受講生のアントワン、という布陣。

パスキエ先生と弾けることがもう夢のようで、それだけで幸せだったのですが、元イザイカルテットのダ=シルヴァ、フランスを代表するソリストのドマルケットがまた、めちゃくちゃにうまい。

特にドマルケットは、これぞフランス最高のチェロ!

まるでポルシェのように、エレガントで突き抜ける音。

私が初めて耳にするようなチェロの音でした。

 

フランスに移ってまだ1週間の私。さすがにフランス語のリハーサルにはついていけず、「こいつはどっから来たんだ」感もなんとなく感じつつでしたが、いや、もうパスキエ先生が隣にいてくれれば、何も怖くない。

こちらはルイ14世が結婚式を挙げたことで知られる、サン=ジャン=ド=リュズ大聖堂での本番。壮観でした。

宝物の写真。

 

このフィレンツェは、アカデミーが終わった後、パリ郊外で開催されるソー公園オランジュリー音楽祭でももう一度演奏することになっていたのですが、そこでサプライズが。

このコンサートはロシアもので固めることになっていて、前半にはアレンスキーの弦楽四重奏が予定されていました(私は関係ない)。

ところがさらに「プロコフィエフの2つのヴァイオリンのためのソナタをやらないか」とおっしゃるのです。

 

もともとやる予定で、私に言うのが遅かったのか、パスキエ先生の思いつきで直前に追加したのか、よくわかりませんが、とにかくアカデミーが始まってから、急に譜面を渡され、「できる?」と訊かれる。

パスキエ先生と2人っきりで弾けるチャンス。

できないなんて言えるわけがありません。

幸い、違うパートで一度弾いたことがあったので、そんなに苦労はなかったのですが、いや、痺れました。本当に楽しかった。

フェラーリみたいなデルジェスをバリバリに鳴らすパスキエ先生にかなうわけはないけど、先生の音に近づけるよう、全力で弾いたものです。

 

その時の演奏はこちら。

youtu.be

私の方が音が暗いなあ・・・😅

しかし、めちゃくちゃ調子に乗って弾いてるのが、今となっては微笑ましい。

22歳、若かったなあ。

 

幸運はこれだけではありません。

このアカデミーは色々な音楽祭と提携していて、期間中いい演奏をした受講生に色々と賞を与え、またコンサートで弾けるようにしてくれるのですが、グランプリにあたる「アカデミー・ラヴェル賞」を含め、賞をなんと3つもいただいた。

 

これにより、翌年春にサン=ジャン=ド=リュズで開かれる「アカデミー・ラヴェルの春」音楽祭に招かれ、6月にパリのブッフ・デュ・ノール劇場でのコンサート(medici.tvやfrance musiqueの収録も入る、かなり大きな公演)でジャン=フランソワ・エッセールとドビュッシーソナタを弾き、8月には、同じ地域のオスゴールという街で、アキロン・カルテット(翌年にボルドー国際で優勝!)らとショーソンのコンセールをできることに。

 

グランプリを一緒にもらったのは、ヴィオラのナタナエルと、チェロのアナスタシア・コベキナ

その後チャイコフスキーコンクールで3位になり、今は世界中をソリストとして飛び回っています。

そんな子と同列扱いされることも、一緒の舞台に立てることも、信じられなかった。

youtu.be

ブッフ・デュ・ノール劇場、ゲネ本でやったアンコールがmedici.tvのチャンネルに残ってしまっています💦

が、まあいい思い出だ。

 

※アナスタシアとはその後も、オヴェール・シュル=オワーズの音楽祭で、ソリストコンマスとして再会したことも!(10:10でちょっとデュエットシーンも・・・)

youtu.be

 

あれほど日本では苦労したのに、フランスに来てたったの半月で、コンクールも何も受けていないのに、これだけの幸運が降りかかってきた私。

フランスに来たことを後悔しようがない。

当時は、生まれる国を間違えたんだろうな、とすら思いましたが、でもやっぱり日本での苦労があってこその、必然的な展開だったのでしょう。

 

あら、9年分の話を書こうとしているのに、最初の2週間のことだけで1記事埋まってしまいました。

でもこれは本当に、自分にとってその後の運命を決定づける出来事でした。

 

ラヴェルアカデミー、場所も最高だし、友達作りもできるし、演奏機会ももらえるので、とってもおすすめですよ。

気になる方は公式サイトをどうぞ!

 

次回へ続く。

コンクール⑤

書き出すと止まりません。

もはやコンクールではない話題も混じっていますが、自分の中ではつながっていることなので。

 

さて、大2の夏休みに参加したラヴェルアカデミー。

本当に偶然、小川響子ちゃんと、町田匡くん(現在、日本フィル団員)も参加するということがわかり、パリの空港からは一緒に行動したのでした。シャルルドゴールからオルリー空港への連絡バスがどこに来るのかわからなくて、なかなかの珍道中だったけど、楽しかったなあ。

 

この時の経験が、それまでドイツしか考えていなかった自分が、コロッとフランスに寝返った大きなきっかけでした。

ラヴェルも愛した、さんさんと輝く大西洋の太陽のもと、大好きなパスキエ先生と過ごす時間。

それはレッスンというよりも、音楽について話す時間。

コンクールを受けるから曲を練習する、というのが当然だったルーティンから完全に脱け出し、美しい音楽と向き合ってさえいればいい2週間。

公開レッスンでは、地元のお客さんがぎっしりと客席を埋めて、コンサートさながら。

ラヴェルソナタの3楽章を弾き終えた時の拍手喝采は、忘れられません。

フランスのお客さんってこんなふうに自分の演奏を受け止めてくれるんだ、と感激しました。

 

室内楽も楽しくて、マントヴァーニの五重奏のピアノは、パリ留学の大先輩・深見まどかさん!ヴァイオリンのピエール=エマニュエルとヴィオラのギヨームはフランス人、チェロのニルはパリ音楽院在籍中のトルコ人

変拍子だらけで、はじめのうちは大混乱のリハーサルでしたが、笑いの絶えない、楽しい練習でした。

イル=ド=フランス管弦楽団に入団したギヨームとは今でもたまに仕事が一緒になります!

 

ドビュッシーのピアノトリオを一緒に弾いたのは、フランス人のジュリーとアレクシ。2人ともパリ音楽院在籍中でした。このうちアレクシとは、のちにカルテットを結成し、どっぷりと一緒に弾きましたし、ほかのオケや音楽祭の仕事もたくさん繋いでくれました。パリでフリーランスとしてやっていけるようになったのも、一つには彼のおかげです。

考え方、感じ方、コミュニケーションの取り方、なにもかも違う彼らとのリハーサル。ちょっとストレスを感じなかったわけではないけれど、好奇心の方が強かったですね。

 

この2曲はコンサートでも演奏しましたが、特に教会でドビュッシーを弾いたときは、本当に幸せでした。

合間の時間に海辺でカフェしたり、響子ちゃんや町田くんと家でご飯作って食べたり、パスキエ先生にくっついていったり、とにかく楽しい毎日でした。

これ以上書いているとコンクールの話題に戻れないので、続きはまたいつか。

 

この体験を経て、ますます日本から出ることを望むようになった私でしたが、どうもコンクールへの未練はしぶとい。

受けないのは「逃げ」なんじゃないか、やっぱりタイトルは必要なんじゃないか、と思ってしまうのです。

大2の冬、宗次エンジェルコンクールの課題曲をみると、二次予選に、なんと勉強したばかりのドビュッシーソナタがあるではありませんか。

一次も、バッハの無伴奏ソナタ3番の3〜4楽章に、イザイの6番という、ちょっとチャレンジ精神をそそるもので、二次のヴィルトゥオーゾピースには、得意のカルメン幻想曲も使える。

 

これなら楽しく取り組める、そう思って出場しましたが、いや、現実はそう甘くない。

準備の段階では結構いい感じで、イザイもバッハも安定して本番で弾けるようになっていたのですが、コンクールという場になった瞬間、まるで実力が出しきれない。

大勢が次から次に同じ課題曲を弾く中、番号で呼び出されてステージに立たされる。

なんで自分がここで弾いているのかわからないのです。

こういうコンクールというのはどっちみち、将来ソリストとして世界に羽ばたいていく人が何人かいるので、自分が予選ひとつ通過したところで、どうなるものでもない!なんて思っちゃうのです。最初から気持ちで負けているんです。

ラヴェルアカデミーで、満席の聴衆を前に自信満々で弾いていた自分はどこへやら。

 

フランスでもらった盛大な拍手と、楽しい室内楽の経験のあとに、このコンクールでの完全なる挫折経験。

私が、どうみてもコンクールでのし上がっていくタイプではないこと、たとえ一時的にでも勝ち負けで音楽することが耐えられない人間であることは、もう明白でした。

この直後、大学を出たらフランスに行くと決心し、フランス語教室に入会。

少なくとも留学するまでもうコンクールはやらない、と決意していました。

パガニーニのカプリスが全部弾けないようなことで、将来どうするんだ」と父には言われましたが😆

もう、自分のやりたいことをやりたいようにやるんだ、と決めていました。

「これからは本当に愛する曲だけをお客さんのために弾きたいと思います」と小栗先生にもお伝えしたところ、温かい励ましのお返事をいただいたこと、忘れられません。

 

大学3〜4年は、リサイタルをしたり、室内楽の自主公演を企画して芸大の友達を招いたり、フランスで出会った友人とデュオをしたり、学校アウトリーチをしたり、大阪フィルにエキストラで呼んでいただいたり、自主企画で指揮なし弦楽オケの弾き振りをしたり。たまにはレコーディングやパーティ演奏の仕事もして、アマオケとコンチェルトも弾いて。

やりたいことをやりたいようにやっていました。

 

京大オケなどのアマチュアの仲間でオクテットのコンサートをしたのは、もう本当に楽しかった。

その時の仲間が、いまでも一番の親友です(チェリスト諸岡拓見氏含む)。

 

京都フランスアカデミーにも毎年行って、パスキエ先生や、オリヴィエ・シャルリエ先生にも習ったし、パスキエ先生を追っかけてハンブルクの講習会にも行った(当時学生で、いまアンサンブルアカデミーを一緒にやってくれている重野友歌さん、お世話になりました〜!)し、ルーマニアの演奏旅行に連れて行ってもらったり(この時に知り合ったのが、佐久間聡一さん♪)、小澤国際室内楽アカデミー奥志賀や、小澤征爾音楽塾に参加したり。

 

小澤アカデミーは私にとって衝撃的でした。

音大に行かなかった私ができなかったことの一つが、室内楽にどっぷり浸かる経験(でも最近聞くところによると、音大に行っても、みんながみんな、思うように経験できるわけではないようですね💦)。

当時の私の同年代の人たちは、とびきりスターが多くて、芸大でも桐朋でも、みんなそれぞれグループを掛け持ちしたりして、すごく盛り上がっているように見えました。

見なきゃいいのに、またそういうのをSNSで見てしまうのですねえ・・・

音大に行きたいと思ったことはなかったはずなのに、音楽を通じて仲間が広がっている様子を見ると、それはちょっと羨ましかったですね。

「音大に行かなかった燎くんは人脈がなくて苦労するぞ」なんて、先輩の音楽家から言われたこともありましたし。

そんな中、小澤アカデミーの仲間に入れていただき、原田禎夫先生らに、アンサンブルの何たるかを、斎藤秀雄メソッドで叩き込んでいただいたのは、大きかったです。

東京オペラシティでのファイナルコンサートは、かけがえのない思い出になっていますし、小澤塾の「子どもと魔法」も印象深い経験でした。

 

そういえば、コンクールとは違うもので、「ABC新人コンサート」にもチャレンジしました(今は廃止)。

予選、本選を通過すると、ザ・シンフォニーホールで弾かせてもらえて、さらにその中で選ばれた人がオケとコンチェルトを弾けるというもの。

自分が真心をこめて演奏できるショーソン「詩曲」で出場したところ、想いが届き、シンフォニーホールで演奏できることに。

オケとの共演には至りませんでしたが、この舞台で自分の音楽をやれたこと、自分の中で大きな財産になっています。

人との優劣じゃなく、自分も1人の音楽家なんだ、と思わせてくれました。

直後、大阪フィルのエキストラに行ったら、聴いてくださっていた団員さんが「本当によかったよ」と言ってくださって、あ、伝わったんだ・・・と。嬉しかったですね。

 

コンクールから足を洗って、本当に自分がやりたいことに時間を費やしたこの2年間。

自分らしい音楽、自分の好きな曲、一緒に弾きたい仲間。

そういうものに囲まれているうち、はじめてヴァイオリンという楽器が好きになり、音楽の楽しさを思い出し、自分の演奏に自信をもてるようになりました。

もうあとはパリに行って飛躍するだけ。

という心持ちでした。

 

フランスに行ってからも2、3回ほど、思い立って国際コンクールにチャレンジしたことがあるのですが、自分の中ではそれはあまり大きな存在にはなっていません。

フランスに行ってからは、自分らしさを見出し、自分で自分の良さを認められるようになり、思い切りステージに立てるようになったので、日本で受けていた時に比べれば圧倒的に、コンクールでも堂々とした演奏ができていました。

結果に結び付かなかったのは、ヴァイオリンの技術が足りないからではなく、精神が弱いからでもなく、単なる自分の勉強不足だったな、と今は思っています。

その後、コンサートマスターを目指したいと明確な目標を描き始めた段階で、私の中でソロのコンクールというものの意味が完全に消失したので、それ以来、一切受けてこないまま、年齢制限をオーバーしたという次第です😉

 

これにてコンクールの話題は終了。

私にとって、コンクールというのは基本的に辛い思い出の象徴ですが、その中でもがいたこと、悩んだことは、今の自信にもつながっています。

練習に練習を重ね、コンクールがとことん自分の世界ではないと思うまでやったことで、逆に確信を持って、自分の道を歩み始めることができました。

今、幸せにステージに立てているのも、この積み重ねあってのことだと思います。

やらなかった人にはない強さを持てたとも思っています。

なので、やらなければよかったとは思っていません。

 

さて、フランスに来てからの9年間は、コンクール以外のことが圧倒的に自分にとって大きな意味を持つようになります。

つまり、人との出会い、つながり、コンサート、音楽祭、室内楽、オケ。

次からはそのことについて書いていきたいな、と思います。

コンクール④

子どもの頃、ヴァイオリンという楽器自体にさほど熱意がなかった、と書きましたが、ひとつ断っておくと、オケと室内楽はまったく別でした。

毎週日曜のジュニアオケで友達と合奏すること、毎春の室内楽セミナーで先生や仲間と弾くこと、それ関連の夏合宿だったり、打ち上げだったり、裏方の仕事だったり、それは大好きでした。

音楽は確かに好きな子供でした。音楽を通じて人が集まることが好きだったのかな。

 

長原幸太先生に憧れ、大阪フィルの演奏会には何度も足を運びました。先生がソロを弾く「英雄の生涯」は悶絶するほどかっこよかった。

いろんなCDを聴きあさり、それこそ、学生音コンのパンフレットで「好きな曲」を書く欄には「ブラームス交響曲」と答えたものです。

今はなき「N響アワー」も毎週録画して観ていました。

小学生の頃のアイドル、五嶋龍さんの弾くシベリウスのコンチェルトのビデオは、擦り切れるほど何度も観たし、東京のリサイタルも聴きに行った。

スターンやオイストラフハイフェッツのCDやレコードもよく聴いていました(当時はYouTubeなんてなくて、古い人の録音しか家になくて、逆によかった)。

父の昔の広響での演奏録音なんかも、とっかえひっかえ聴いていたものです。

室内楽でいうと、最初にハマったのは、やっぱり長原幸太先生が十代のころに弾いていたブラームスのピアノカルテット1番の4楽章。ずーっとその曲ばかり歌っていたような。メンデルスゾーンのオクテットもそうだし、チャイコフスキーフィレンツェの思い出も。全部小学生の時から知っていました。

父が指揮する曲も同じで、武満徹の「3つの映画音楽」を4歳で覚えた私。

 

それに比べると、パガニーニカプリースやバッハの無伴奏ソナタラヴェルのツィガーヌやサン=サーンスのロンカプにはさほど縁もなく、そんなに心惹かれなかった、というのが正直なところです(今は違いますよ!)。

そういう私がソロのコンクールをやろうとしたところで、しっくりこないのも、ある意味仕方ないのかもしれません!

 

さて、楽しかった受験生時代が終わり、京都に引っ越した私。

栗先生には引き続き教えていただくつもりだったし、ヴァイオリンをやめる気はありませんでした。

というか、受験生時代に2回ほど、純粋にすごくヴァイオリンが弾きたくなった時期があって、7月の発表会でショーソンの詩曲を頑張って弾いたのでした。学校から帰って、やるべき勉強をして、それで夜遅くにショーソンの練習。なぜかあの時は取り憑かれたように練習していました。どうしてもこの曲が弾きたかったみたいです。

 

それと受験が終わる頃、どうしてもグラズノフのコンチェルトが弾きたくなりました。勉強のお供のBGMでヴェンゲーロフのCDを聴いていて、とっても気に入ってしまったのです。

それで受験が終わるやいなや、ほぼ半年ぶりに楽器ケースを開けて、夢中でグラズノフを練習して、1ヶ月で弾けるようにして小栗先生のところに持っていったのでした。

 

好む好まざるに関わらず課題曲が与えられ、結果を求められるコンクールから距離を置いたことで、逆に、純粋に弾きたい曲とか、好きな曲が溜まっていった時期だったのかもしれません。

ヴァイオリン弾きたいな、うまくなりたいな、という気持ちは本当にしっかりとあったと思います。

 

日本音コンはもう受けたくない、とはっきり思っていて(自分が未熟なのであって、コンクールが悪いんじゃないんですけどね・・・)、大1のときはとりあえずリサイタルをするということを目標にしました。

栗先生が勧めてくださったのがサン=サーンスソナタ第1番。音楽的要素も豊富で、ヴィルトゥオーゾ的な面もあり、当時の私には必要な曲でした。烏丸御池の下宿で、必死で練習したものです。

そしてショーソンの詩曲をさらに深めることと、ベートーヴェンソナタ3番、バッハの無伴奏ソナタ2番、というレパートリーでした。

 

目の前のコンクールにわけもわからず追われず、競争相手もおらず、ただ自分と向き合ったこの時期が、後々の自分に大きく影響したと、今でも思っています。

弾けないならなぜ弾けないのか、怖さとはどう折り合いをつけるのか、と、まだまだ音楽というより、ヴァイオリンという楽器を通しての狭い視野ではありましたが、それでも自分の課題と真摯に向き合った日々でした。

サン=サーンス、自分で言うのもなんですが、結構上手だったかも。

 

この年も石川には行きましたが、コンクールの課題曲ではないのでマイペースで気楽でした。

そしてこの時に運命の出会い。

のちにフランスに行くきっかけになった、レジス・パスキエ先生のレッスンを初めて受けたのです。

「フランス人だからショーソンかな」なんて軽い気持ちで持って行ったのですが、本当に素晴らしいレッスンでした。

そして彼も私のことをとても気に入ってくださった。他にもっと弾ける人がいくらでもいるのに。

音楽的なセンスとか音色の趣味の相性がよかったのでしょう。

2年前に石川に参加した時は「弾けるか弾けないか」の1軸で思考が固まっていたのが、この時は初めて「音楽家」として見てもらえた気がしました。

 

秋にリサイタルを終えてから、11月には初めて1人で海外へ。

憧れのベルリン・フィルを見に行くことが一番の目的でしたが、1週間ベルリン・ドレスデンプラハと回って、自分探し的な感じでした。

この時点で、もしも音楽を続けるならドイツに行きたい、とうっすらと、しかしある意味確実に、思っている自分がいたと思います。

楽屋の樫本大進さんに厚かましくも押しかけ、いつかベルリン・フィルに入りたいです、って言ってしまったものです🤣

ラトルの振るマーラー9番、それはそれはすごかったです。

 

さて、リサイタルの次どうしようか、となったとき、結局やっぱりコンクール、となってしまうのですね。

ただ、受けるなら絶対海外と思っていて、なるべく自由に曲が選べるのがいい、というのもあり、いろいろ探した末、ルーマニアとイタリアのコンクールをハシゴして受けに行くことにしました。

とにかく好きな曲、自分で魅力的だと心底思える曲でないと、身が入らない人間だということは、すでに十分わかっていたので。

 

それで、すでに春から練習していたバッハや、中学生ぶりのモーツァルト、高1で弾いたシベリウスのコンチェルトに加え、自分のノルマとしてサラサーテカルメン幻想曲と、フランクのソナタにチャレンジ。

カルメンは父が51歳になってから無理やり挑戦した曲で、父からは「難しい、難しい」と散々聞かされていました。そんなこと言われなければ、もうちょっと気軽に取り組めるのに、親がなんでも知っているというのは、一長一短です。

でも、弾いてみたくて自分から選んだ曲なので、苦労しながらも、どこかすごく楽しんで練習していた気がします。

やっと、ヴァイオリンの練習が楽しくなってきたのです。

京大生っていうのは本当に暇で、練習時間はいくらでもあって、サークル活動もろくにせずに下宿に閉じこもってヴァイオリンと向き合っていた私。

晴れの京都生活、なんてもったいないことをやってたんだろうとも思いますが、でもこの時期があっての今だとは、思っています。

レッスンにも毎週通っていたわけではなく、自分で考えて練習するという時間がとても多かったです。その過程で自分で見つけた解決策とか、練習方法、考え方は、今でもすごく助けになっています。

最終的にコンクールでは結果は出なかったのですが、そのプロセスを経たことは、すごく良かったと思っています。

 

大2の夏は、パスキエ先生が教えるラヴェル国際音楽アカデミーへ!

どこかで先生に習える機会はないか、と聞いたら教えてくれたのでした。

バスク地方ラヴェルの過ごした街として知られるサン=ジャン=ド=リュズで開催される、歴史あるアカデミーです。

この時点で心はすでにかなりヨーロッパに向かっていて、もう楽しみで仕方なかった。

規定で、ドビュッシーソナタは課題として指定されていたのと、ラヴェルの曲を1曲やれと書いてあったので、これまたト長調ソナタを勉強することに。その頃練習していたイザイの4番のソナタも。

それら大好きなフランス作品をパスキエ先生に習えることも楽しみでしたが、室内楽クラスでドビュッシーのトリオと、マントヴァーニの見知らぬピアノ五重奏をやることになっていて、これもとても楽しみでした。なんせ海外の人と室内楽なんて全く初めて。どんな時間が待ち受けているのか、ワクワクでした。

こうして振り返って書いていても、日本音コン時代とこの頃は、ヴァイオリンや音楽に対する気持ちも、自分の精神状態もまるで違ったな、ということに改めて気がつきます。

 

次回に続く。

コンクール③

学生音コン1位となると、必然的に次に考えるのが「日本音コン」。

このとき、そんなふうに自動的に思わずに、もう少しよく考えたらよかったな、とはちょっと思います。

(今となって思うことですが、日本音コンは、ヴァイオリンをがむしゃらに練習するだけでは、どうにもなりません。音楽の全体に興味を持つこと、つまり分析や和声などの理論、作曲家やスタイルの理解、アンサンブル経験に至るまで、「音楽家」として必要な要素が満たされていないまま受けても、結果は絶対についてこないと思います)

 

日本音コンに挑戦した高1と高2は、自分にとって、いろいろ辛い思いもたくさんした2年間で、一般大学への進学を確信した、大きな要因だったと思います。

 

なんとなく、受けなきゃいけない、というような雰囲気もあったし、たくさんの課題曲を練習することも勉強になるだろう、とも思いましたが、なにより「いずれは日本音コンで賞を取らなければ先はない」という、根拠のない固定観念にとらわれていた、と思います。

そういえば、はっきりそう言い切ってヴァイオリンをやめていった同級生もいました。

 

実際には、日本音コンで賞を取らなくても、もちろん先はありました😅

 

とにかくやると決まり、当時の私にとっては膨大な課題曲に取り組み始めました。

パガニーニ17番、モーツァルトのロンドK373、サラサーテバスク奇想曲、バッハのパルティータ3番全曲、シューベルトソナタ三善晃「鏡」

先生には本当に、辛抱強く指導していただきました。

 

しかし、なんせ、ヴァイオリンを練習する、という当たり前の習慣ができてから、まだたった2年。

学生音コンの取り組み方の延長線上でなんとかなるのは、パガニーニモーツァルトサラサーテ

バッハのスタイルのことも知らないし、ましてシューベルトなんて大人の曲はその良さも全然わからない。

日本人作曲家の現代曲は初めてでしたが、これは結構面白かった。

 

コンクールまでにたくさんの本番の機会もいただき、課題曲をとっかえひっかえ弾いていました。

しかし前回の最後で触れたように、この頃の私はプレッシャーにさいなまれ、舞台では極端に緊張するように。

全国1位!と紹介されるのに、それに見合った力は出せなくて、バッハは暴走するし、パガニーニは全然弾けないし、バスク奇想曲の最後の速いところも恐怖でしかない。

 

その音楽の魅力とか、お客さんに伝える喜びとか、そんなものはどこにもなくて、自分が恥をかくか・かかないか、という、音楽とは全く関係のないところで苦しみ始めました。

音楽を伝えよう、と思えてもいないので、そりゃ音楽的に仕上がるわけがなく、楽しんで弾けるはずもなく、自分のできる範囲で音を並べ、コンサートを成立させるので精一杯。

まだしも自分らしく弾けていたのは、モーツァルト三善晃くらいですかね。

誕生日が一緒のモーツァルトだけは自分の音楽だと思っていた。

 

そんな状態のままでコンクールを迎えたのでした。

本当に先生には申し訳ないほど、未熟でした。

 

初めての大人のコンクール。

飯田橋トッパンホールのすぐそばのウィークリーマンションに滞在。

行ってみると、楽屋にいるのは年上の人ばかりで、自分なんてダメ元だし、という気もしてきて、1次予選は悪くない出来でした。パガニーニもよく弾けた。

しかし2次のバッハは相変わらずの状態。

とにかくバッハは「自分らしく弾けない病」でした。

管弦楽組曲第3番には小3で惚れ込み、マタイ受難曲には中1ではまったのに、自分が無伴奏で弾くとなると、なんだか全然ちがうものに見えてしまうのです。

この時期に、強迫観念にさいなまれてヴァイオリンの指練習にへばりつくことなく、音楽のしくみとか、和声のことをしっかり勉強していたりすれば、どんなにか楽しく弾けただろうに、と思います。

 

そんなこんなで2次予選にて敗退。

このとき本選で優勝されたのが、前回から「アンサンブルアカデミーinしまなみ」の講師で来てくださっている瀧村依里さん✨

ブラームスのコンチェルト、東京オペラシティの前から何列目かで、拝聴しました。

恐れ多いながら、ありがたい繋がりです・・・。

 

このコンクールが終わってからの秋〜冬の時期が、自分にとっては一つの転機でした。

「なぜ音楽をしているのか」「なぜヴァイオリンを弾くのか」ということ自体、まだまだ不安定な自分でしたが、そこには「人前で弾くことへの恐怖」が大きく関係していました。

中3の学生音コンでは「速いパッセージへの恐怖」にさいなまれましたが、この高1の年からは「暗譜への恐怖」が立ち込めるようになったのです。

急にたくさんの曲を練習することになったのもあるでしょうが、本番で弾いていて、次何を弾いていいかわからなくなって手が止まったらどうしよう、という不安にかられ、それが原因で緊張し、テンポは走り、音程も悪くなる、という副作用までついてくる。

もうまったく本番で落ち着いて演奏できない状態に。

これには真剣に頭を抱えました。

やっぱり自分はステージに立つ仕事は向いていない、とも思っていました。

 

しかしこのオフシーズンに、この状態からほぼ脱出することができ、舞台で演奏するにあたっての大きな苦痛がひとつ減ったのです(ひとつ減れば、また何かが増えるわけですが・・・)。

これに関しては、悩んでいる方の役に立つと思うので、別の記事でお話しします。

 

そして迎えた高2。

この頃には、大学は音大に行かないことはほぼ確定していて、それは高1のコンクールの結果のせいというより、前々から家庭内ではっきりしつつあったことでした。

音大卒の両親2人に、音大に行けとはただの一度も言われたことがなく、父は東大の法学部か文学部に行け、母はいやいや京大に行ってほしいと、親同士で勝手にそういうことになっていました🤣

私はそれほど、どうしたいという希望がなく、勉強も嫌いじゃなかったし、ヴァイオリンもそんなに好きかどうかわからないし、ということであっさり親の意向に素直に従ったのでした。

 

しかし日本音コンはなぜかリベンジした。

まあもう一度くらいは頑張ろうと思ったのでしょう。

 

この年の課題は、パガニーニ22番、ヴィエニャフスキポロネーズ1番、バッハの無伴奏ソナタ1番、武満徹:悲歌、ブラームスソナタ3番、サン=サーンス/イザイのワルツカプリス。

とにもかくにも、ワルツカプリスが超絶難しく、猛練習しました💦

そしてまた、のしかかってくるバッハですが、オフシーズンの間に別のパルティータを先生と勉強していて、少しでも自分の音楽にしようという取り組みもあり、前の年よりは音楽的に勉強できていました。

当時の楽譜の注意書きを見ると、本当に先生が一生懸命、私に理解させようとしてくださっているのが手に取るようにわかります。

しかし、まだまだ習ったことを形にするのが精一杯で、自分の力で楽譜を読み解くことができない中での試行錯誤。

その音楽がどうやってできているのか、という一番肝心なところより、ヴァイオリンのメカニカルな要素と必死で向き合う日々。

 

バッハが課題である以上、「音楽をどう見ているか」を見られているに決まっているのに、「ヴァイオリンを弾けるかどうか」だけを見られていると思い込んでいる自分。

恥ずかしいことです。

しかし、実際にそういう学生は多いと思うので、あえて隠さずに書きます。

 

この年、はじめて「いしかわミュージックアカデミー」に参加し、日本トップクラスの同世代がひしめき合う場に身を投げました。

それはそれはもう、錚々たる顔ぶれでした。

生コン優勝なんて当たり前、すでに国際コンクールで入賞歴のある人もわんさか。

ここで私は完全に自分を見失うほどの衝撃を受けます。

 

練習室からもレッスン室からも、すさまじく素晴らしい演奏が漏れ聞こえてくる中で過ごす10日間。みんな同じ日本音コンの課題曲をさらっていて、みんなワルツカプリスと格闘していました。音大でヴァイオリンに身を捧げている人たちとの夜の密会。浴衣姿でパガニーニのソーレのカデンツァをチャラチャラっと目の前で弾いてくれた某ソリスト

楽しかったのは楽しかったし、刺激的でした。

これだけ才能と努力を持ち合わせた人がいる中、自分の演奏なんていかにちっぽけなものか、思い知らされたし、自分程度が音楽の道に進む必要なんて全然ないなと、やっかみではなく心から思い、むしろ安心した一面も。

あまりにもすごすぎる人たちに囲まれながら、自分も必死で練習しましたが、やってもやっても弾けるようにならないし、なんなら来る前のほうが弾けていた。

とにかく、「弾ける」「弾けない」の指標しか考えられなくなっている私でした。

周りの人たちも「〇〇さんうまいよね」「ひけるよね」とか、そんな会話ばかり。

音楽とは。

 

これが終わったら受験勉強に本腰を入れるということも、ほぼわかっている状態で臨んだ、実質高校生活最後のコンクール。

前年よりははるかにまとまった演奏だったと思いますが、石川で、本当にうまい人のレベルを肌で感じた私は、自分が本選に出てコンチェルトを弾く器だとは、これっぽっちも思っていませんでした。そもそも弾きたいとも思っていなかった。

その程度の自信、その程度の覚悟ですから、音楽的求心力は弱いし、そうなると粗が目立つ。

またも2次予選で終了でした。

優勝はいま、ミュンヘンフィルのコンマスをされている、青木尚佳さんでした(聴きには行けなかったのですが)。

 

冒頭にも書きましたが、これは日本の音楽教育の限界でもある、と思います。

小さい時はひたすら「ヴァイオリン」を練習していて、「音楽」は勉強しない。

もちろんヴァイオリンの先生から指摘されて、音楽的なことは教わるけれど、ちゃんと体系立てて音楽理論を学ぶのは、下手すると音大に入ってから。

ということは高校生で日本音コンに出ると、なんにも本当は理解していないのに、先生の言うことを見よう見まねで弾いているだけ、という状態になります。

ヴァイオリンのソロ曲を華やかにミスなく弾けるように、ということを幼児の頃からずっとやってきて、フレーズがどうなっているからとか、和声がどうだからとかといった、音楽の本質的なことは、10年以上後になって、室内楽をやったりするようになってから、初めて自発的に考え始める。

センスがある子は感覚的にできてしまうこともあるでしょうし、中には自分で興味をもって取り組む子もいるでしょうが、大概そうもいかないものです。

なんだか順序がおかしい気がします。

小さい頃からコンクールに出ることの一つの弊害とも言えるかもしれません。

 

フランスには、作曲も即興もできて、ピアノも弾けて、普段はチェリストとして活動しているとか、歌も歌えてチェロも教えられて、普段はピアニストとか、そういう人は珍しくありません。

ルノー・カプソンの伴奏をよくやっているピアニストのギヨーム・ベロムは、なんとヴァイオリン(ドガレイユ先生のクラス!)でもパリ音楽院を卒業しています。

私も、15歳くらいのチェロ少年が作曲した弦楽五重奏(素晴らしい曲でした)の初演とか、そういうことに携わる機会はひんぱんにあります。

彼らの音楽に対する視野がなんと広いことか。

ヴァイオリンという楽器を通してしか楽譜を読めない自分が、心底恥ずかしくなります。

たしかにパガニーニのカプリスを弾いたら、日本人の方が完璧かもしれません。実際、国際コンクールとなると、フランス人は大半、予備審査で落ちてしまいます。

しかし、音楽の世界ってそれだけじゃないと思います。

アンサンブルアカデミーをやっているのも、自分に対する反省の裏返しでもあります。

このことはまた別の機会に詳しく書ければと。

 

ともかく、高校最後のコンクール終了。

その後は、本当に気が楽な毎日でした。

受験勉強さえやっていればいい。

100点でなくても、60点でも合格する世界です。

書き間違えたら消しゴムで消せます。

人前で間違えたり、恥をかく恐怖もない。

新しい知識を吸収することも面白かったし、試験という目の前の目標に向かって、ミッションをクリアしていく道のりも楽しかった。

正解をはじき出せばいいんですから。

そもそも正解が何かもわからない音楽の世界から脱出した私は、ほぼゲーム感覚で楽しく勉強していました。

 

次回に続く。